[Happy...!?]
「まったく、馬鹿げてますよ!」
お茶を運んできたハドソン夫人に向けられた最初の一言は、そんな不機嫌極まりない言葉だった。
「どうかなさったんですか? またドクターと喧嘩でも?」
「喧嘩!? 喧嘩になればよかったんですがね!」
机の上に足を乗せようとした瞬間、危うくハドソン夫人に当たりそうになってホームズは慌てて足を下げた。
「――失礼」
「いいえ。お茶がこぼれてしまったら大変でしたけど」
そう言ってトレイからポットとカップを下ろし、いつものようにティータイムのセットを始める。
「またおひどいことでも言ったんじゃありませんの?」
「ひどいこと? 僕はただ彼があまりにもロマンチストに過ぎると言っただけですよ」
「ロマンチストに過ぎるだなんて……。別によろしいではありませんか」
先ほど上から聞こえてきた言い合いはこれだったのだとわかり、彼女は一息漏らした。しかし呆れ返った彼女の横でホームズはまだ機嫌が悪いのか唇を噛んではぶつくさと文句を言い続けている。いずれは機嫌も直るだろうと、そのまま部屋を去ろうとしたが、ふいに聞こえてきた言葉に思わず彼女は聞き返した。
「サンタクロースですって?」それから少し間を置いて。「ファーザー・クリスマスではなくて?」
よもや彼の口からそんな単語が出てくるとは思っていなかっただけに、彼女は目を丸くしてホームズを見つめた。その視線を振り払うようにホームズは目の前で手を振ると苦々しそうにその意味を伝える。
「ドクター・ワトスンが言ったんですよ。『君はサンタクロースを信じていたかい?』なんてね!」
その時のことを思い出したのか、お茶を持ってきた時以上に不機嫌そうな声を出したホームズに肩をすくめるとハドソン夫人はそっとドアを閉めて階下へと降りていった。
「あんなもの、クレメント・ムーアとかいう牧師の想像じゃないか!」
いまだにそうわめいている下宿人をこれ以上刺激しないようにそっと足音を忍ばせて。
「お茶をお持ちした時からずっとああなんですのよ」
帰ってきたばかりのワトスンを待っていたのは女主人の嘆きだった。
「昨日は子供みたいに――あら、立派な紳士に『子供』はありませんわね。でも、本当に子供みたいにあんなに喜んでクリスマスの飾りつけをしてらっしゃったのに、さっきお部屋に入ったらまるで昨日のことが嘘だったように怒ってらっしゃるんですもの。もう手がつけられなくて!
先生、どうにかなさってくださいな。明日はせっかくのクリスマスだというのに」
「大丈夫ですよ。夕食までには……。なんとかしてみるつもりです」
まだ続きそうな嘆きを適当に流すと、ワトスンは帽子を手に二階へと駆け上がった。居間からは彼がまるで感情を吐き出すかのようにかき鳴らすバイオリンの音が流れてくる。その音に嫌な予感を覚えながらも、ワトスンは居間の扉をさっと開いた。
「やあ、おかえり。サンタクロースの存在を信じているbelievesドクター・ワトスン」
「”believed”だよ、ホームズ。今は別に信じてはいないさ」
嫌な予感ほど当たるとはよく言ったものだ。ワトスンは深いため息を一つつくと、すぐそばにあった椅子へと腰を下ろす。
「ハドソンさんが困っていたよ。君の機嫌が悪いとね」
「その僕の機嫌を悪くさせたのはワトスン、君じゃないか」
「別に私は君の機嫌を損ねようと思って言ったわけでは――」
「どちらにしろ同じだ!」
手に持っていたバイオリンを半ば投げ出すようにソファへと置くと、ホームズは叩きつけるようにそう言った。
「第一、この僕がサンタクロースなど信じていたと考える方がおかしいよ! サンタクロースなんてものはアメリカの牧師が作り出した想像の産物だ。ましてやそれが妖精だと? どこまで夢の世界にひたるつもりなんだろうね!」
「――ホームズ」
「サンタクロースなんて僕からしたら煙突から勝手に人様の家に入ってくるただの犯罪者だよ。だいたい、妖精だのなんだのすべてはおとぎ話のことなんだよ? それを嬉しそうに『妖精は存在する』だなんて議論している大人がいるっていうんだ。まったく、神から与えられた人間の知性っていうのはどこまで退化してしまって――」
「ホームズ!」
一人でしゃべり続ける彼を制止しようと声を上げたワトスンにホームズは視線をちらりと投げかけた。
「何かご意見でも、ドクター?」
「ホームズ。さっきも言ったように私は別に君を怒らせようとしてあんなことを言ったわけではないんだよ。ただ率直に言えば、君は幼い頃どのようなクリスマスを過ごしていたかが気になっただけで――」
「普段と何も変わりのないものさ」
「しかし君のお父さんやお母さんがプレゼントを用意してくれていたんだろう?」
それを聞いたとたんホームズの顔色がさっと変わった。
そして天井を軽く睨むと少し何かを呟いて向かいに座っているワトスンに視線を移す。
「すまないが一人にしてくれないか?」
有無を言わせないその口調にワトスンはまたもやため息をつくと、先ほど入ってきたばかりの扉を抜け階段を上っていった。
夕食はそれはもう素晴らしく、女主人がおおいに腕を振るったのがわかるものだった。丸焼きにされた鵞鳥は柔らかく、添えられたワインは甘すぎず渋すぎず上品な味と香りを提供してくれたし、ハドソン夫人お得意のクリスマスケーキはそこら辺の有名レストランの味にも劣らぬものに思われた。
夕方から顔を合わせていなかったホームズも大人しく食卓につき、珍しく料理の味を褒めて女主人を労っていたので、彼女はもちろん、同席していたワトスンも安堵のため息を漏らしたのだった。
夕食後、共に暖炉へと足を伸ばしながら今年起こった様々なこと――主にホームズが手がけた事件の話――を二人で回想しながらこの一年も大きな事故も怪我もなく終わらせることができることを互いに喜んでいた。
その話もひと段落ついた頃、ふいにホームズが後ろのテーブルへと手を伸ばした。その動きを目で追っていたワトスンはそっと立ち上がり、同じようにテーブルへと手を伸ばす。
「どうやら同じことを考えていたようだね」
きれいにラッピングされた箱を弄びながらホームズが視線を投げかけた。
「君の行動を見ていたからだよ」。そうワトスンが返すと彼は喉の奥から小さな笑い声を立てた。
「僕が常日頃から言っている観察の大切さを君もようやく理解してきたようだね」
「そりゃもちろんさ」
ワトスンは得意気にそう胸を張るとこう続けた。
「君がテーブルに手を伸ばした。そしてそのテーブルの上には私が置いた包みの他にもう一つ包みが――どうしたんだい?」
一瞬眉をひそめたホームズが愉快そうに笑い声を立てたのはその時だった。
「見事だ! 実に見事だ!」
手を叩いて笑い転げるホームズに今度はワトスンが眉をひそめた。
「何がそんなにおかしいんだい?」
「いやいや、別に何でもないんだ」
「何でもないわけないだろう?」
ワトスンが不満げにそう漏らしてもホームズは笑いながら否定するのみ。しかし視線を移したワトスンが不機嫌な顔をしているのに気付くと、少しだけばつが悪そうな顔をして立ったままの彼を覗き込むように見上げて無言のまま許しを請う。
「ワトスン」
「なんだい?」
「――メリー・クリスマス」
そう言って彼の手にあった箱を差し出されるとワトスンも自分がへそを曲げているのが馬鹿らしくなって。
「メリー・クリスマス、ホームズ」
自分の手の中にあった箱をホームズに差し出した。その瞬間、ホームズが言った言葉を思い出す。
『同じことを考えていたようだね』
数分前に耳にしたばかりの言葉を思い出し、まさかと思いながらも慌てて包装をとく。やがて赤いクリスマスラッピングの中から現れた箱を見てワトスンは驚きと感嘆の声をあげた。
「ホームズ! これは!?」
「だから言っただろう、同じことを考えていたと」
おかしさが戻ってきたのかホームズがまた笑い声を立てる。思わずつられてワトスンも大声をあげて笑い出してしまった。
それもそのはず。互いに相手に渡した箱から出てきたのは、自分が相手に渡したはずの手袋だったのだから。
「種明かしをしてみせようか?」
いたずら心に満ちた目で見てきたホームズにワトスンはありったけの力をこめて首を縦に振る。
「それでは」
立ち上がり、もったいぶったように手を広げるとホームズは『極めて簡単な推理』を披露した。
「君の行動がおかしくなりだしたのは十日前、朝食を取った後のことだ。コーヒーを飲んで立ち上がった僕の後、同じように立ち上がった君はふいにテーブルに目を向けた。そしてそれは昼食、さらには夕食の時も同じだった。君が視線を注いでいたのには何か理由があるとふんだ僕は、翌日の朝食が終わった後、わざとテーブルクロスを手でずらして君の反応を見たんだ。するとどうだろう! 君はさりげなく――無意識に近いような行動ではあるが――そのしわに自分の手を合わせて首をかしげた。これで君が何を知りたがっているか、そして何を買おうとしているかまでわかった。そしてその夜君は――」
それまで意気揚々と話していたホームズはそこまで言うとさっと顔を赤らめて。
「もうわかっただろう?」
「いいや、まだだよ」
わざとらしく頭をふったワトスンにホームズは心底意外だという顔をした。
「ここまで言ってもわからないのかい?」
「そんなわけではないよ、ホームズ」
「じゃあ、まだ何かあるのか?」
「そうだな。まだ君がデンツで私と同じように手袋を買った理由がわからないし、君はその夜決定的な証拠を手に入れたはずだが、それに関しての解説を聞いていないね」
「――僕にそんなことを言わせる気なのか?!」
ホームズは耳まで真っ赤にしながらそう叫んだ。もちろん、『そんなこと』というのはワトスンが聞いたうちの『決定的な証拠』であることは言うまでもない。
普段は絶対に見られることのないホームズの表情にワトスンは少しだけ嬉しそうな顔をした。
「すまない。よければなぜ君が私と同じ手袋を買っただけでも教えてくれないかい?」
さあ、と促されて彼は咳払いを一つすると。
「君の手袋は最近痛みが激しかったからね。君が僕に手袋を買おうとしていること、そして数日後にデンツの包装紙に包まれた箱をコートに隠して持って帰ってきたのを見て少し驚かせてやろうと思ったんだ。それだけだよ!」
一気にそうまくしたてると、彼は勢いよく椅子に腰掛けた。
その後しばらくそっぽを向き、椅子をとんとんと指で叩いていたが、顔の熱を冷まそうとしているのは明らか。彼が懸命にそうしているのを見て、あえてワトスンは気付かないふりを続けた。
「君は実直な人間だがたまにとんでもない顔を見せるもんだな」
ホームズが苦々しそうに言うと横でワトスンが苦笑するのがわかった。
「笑い事ではないと思うけどね」
「すまない。でも君があまりにも――」
それ以上続けて大切な人を怒らせるのはよそうとワトスンは口をつぐんだ。しかしホームズはいかにも腑に落ちない表情をその顔に浮かべる。
「最近君は妙に意地が悪い、いや馬鹿に強気だね」
「そんなことはないよ。それは君の勘違いじゃないか」
「いいや。少なくとも僕にはそう思えるね」
完全にへそを曲げてしまったホームズはなんと言ってもすぐには機嫌を直さない。それは痛いほどよくわかっているのだが、それでもワトスンは口を開く。
「それでは君にお願いをするとしようか」
「願い? それは僕が叶えてあげられる種類のものなんだろうな?」
「もちろんだよ! その、少し言いにくいんだが」
そこで一度言葉を切るとワトスンは深呼吸を一回して。
「今夜、君の寝室にお邪魔してもいいかな?」
そう彼の顔色を伺いながら告げた。ホームズは驚いたようにワトスンの顔をしばし凝視したが、やがてぷいと顔をそらすと呟いた。
「君の好きにすればいいじゃないか」
「それはもちろん、君も少しは賛同してくれたと取っていいのかな?」
「そうだね。その代わり」
向き直ったホームズは意地が悪そうな笑みを浮かべて。
「部屋には鍵をかけておくからがんばって開錠するんだな!」
「な、なんだって!?」
「君が信じている例の不法侵入が得意な彼ならやってのけるだろうさ」
「不法侵入……? ――だから今は信じていないと言っただろう!」
「いやいや、君がどれほどの腕前を見せてくれるのか本当に楽しみにしているよ」
すっかり気分をよくすると、ホームズは楽しくて仕方がないように体を揺らした。
「夜明けまでに侵入することができたら『決定的な証拠』の解説でもしてあげるよ。ねえ、ドクター・サンタクロース?」
THE END