[通り雨]
「おや、ホームズ。雨だよ」
「ふぅん。そうかい」
窓辺で外を見つめていたワトスンの声に応えたのは、珍しく部屋の片付けをしていた友人のそっけない返事だった。
窓の下にある煉瓦道はみるみる濃い色に染まりゆく。通りを歩いていた紳士淑女は慌てて傘を広げ、その傘の間をぬって二輪馬車がいつもと変わらず駆け抜けていく。車を牽く馬の背中を激しい雨が叩きつけていく。先ほどまで光溢れていた世界は鈍色へとすり替わっていった――。
「あのご婦人はどうしたものだろうか」
呟いたワトスンに、ホームズが振り返ったのが気配でわかる。
「美しいご婦人でも見つけたかい?」
「いや、確かにそうだが、傘を忘れたようでずぶぬれだ」
「君が傘でも持っていってやればいいんじゃないのか?」
せわしなく棚を引き出す友人の提案に、ワトスンは合点したが。
「一足遅かったようだね。二輪馬車に奪われてしまった」
そう言って己の失敗と部屋の散乱ぶりを嘆くかのように肩をすくめた。
特に珍しくもない、午後の雨。
この大都会ではごくありふれた日常。
必要以上に散らかった部屋の中は、片付けをしていると言うよりも、むしろ懸命に散らかしているように見える。
「ワトスン」
ふいにファイルをめくっていたホームズが呼びかける。
「どうかしたのかい?」
「いやね、あの外科医の殺人事件のファイルは……」
「それだったらSの棚にあるはずだ」
「そうか。ありがとう」
礼を言うなりホームズは散らかった書類の間を大股で抜け、窓際にあった『S』とラベルの貼られた棚を勢い余って引き落とす。重力に任せ床に落ちた書類は、彼の足元で山を作る。
「この部屋を見たらハドソンさんが泣くね」
「大丈夫だ。彼女は……」
体を二つに折り曲げ山をかき分けると、ようやく目的の書類を見つけ。
「ご友人と一緒にお食事なんだそうだよ」
少しあえぎながらも意気揚々と先ほど見ていたファイルに挟み込んだ。
その後もあれがない、これがないと騒ぎながらも、少しずつ書類の山を分け、新聞をまとめていく。それにワトスンは読みかけの医学雑誌に目を通しながら、ホームズの求めているものを次々と思い出しては場所を教える。
いくらかそれを繰り返した時だった。
「一晩降るかと思ったが、止んだようだね」
窓の外に目をやったワトスンが、相変わらず床にはいつくばって書類を分けていくホームズに話しかける。
「そりゃよかったね」
感情を込めないまま答えたホームズに少々むっとして、ワトスンは無言のまままた窓辺へと足を進める。地面はまだ濡れているものの、往来の人々の手にすでに傘はなく、うっすら晴れた雲の隙間から柔らかな夏の終わりの光が落ちてくる。
「ホームズ」
「なんだい?」
「ちょっとこっちに来てみないか?」
「君は今僕が何をしているのかわかってるのかい?」
少しいらついた声もいつものこと。ワトスンは執拗に窓辺へと友人を誘う。
ついに折れたのか渋々ホームズが歩み寄った。
「そんなに珍しいものでも――」
「ほら、あれをご覧よ」
そう言って、先ほど見つけた光を指差す。
「きれいだと思わないかい?」
「ふん。先ほどまで雨だと思えばもう太陽か」
「変わりやすさはご婦人の心のようだ」
「では君は気象予報士にもなれるわけだね」
鼻を鳴らして下に目を向けたホームズの横で、ワトスンが軽く咳払いをする。
「別に私はご婦人の心がわかるわけではないよ」
「おや。三大陸の女性を知ってるんじゃなかったのか?」
「知ってはいるがわかるわけでは……と、こんな話ではなくてだね――」
不機嫌そうに抗議の声を上げたワトスンを横目でちらりと見やって。
「わかってるさ」
不機嫌な友人をなだめるように。
「たまにはこういうものを見るのもいいもんだ」
窓辺にひじをつき、明るい日差しに目を細める。
隣りで彼の親友がほっと息をつく音が聞こえた。
THE END