[Person Unknown]-04-


 波の音が近づくと同時にどんどん潮の香りも強くなってきた。もう少しで海だと思うと少し嬉しくなって思わず駆け出していた。道が少しずつなだらかになるのをこけないように気をつけながら走ると、すぐ目の前に暗い海が広がった。そのまま飛び降りるとさくっと小さな音を立てて砂浜が出迎えてくれる。

 やっぱりここは落ち着く。元からほとんど人など近寄らない場所だが、夜は特に人気もなくのんびりできる。今まで自分でも気付かぬうちに体に力が入っていたのか、背伸びをして深呼吸をするとそれだけで気持ちが落ち着いてきた。何だって、俺はあんなにもサガにびくびくしていたのだろう。俺は俺だ。サガの持ち物じゃない。別にサガに見つかったって逃げようと思えば逃げられるし、刃向かうことだってできる。隠れるようにしてここまで来る理由なんて一つもない。

 小さい頃から俺はここが好きだった。場所としては一応聖域の中になるが、雑兵も見回りにこなけりゃ、他の聖闘士が遊びにくることもない。今まで何度か人の姿を見て慌てて隠れたこともあったが、それもここに来ている回数からすれば一パーセントにも満たないちょっとしたアクシデントだ。
 好奇心旺盛な子供が小屋の中でじっとしていられるわけがない。だがそれだって「見られたら殺される」と念を抑えればこそ我慢できたことだ。――いや、厳密に言うと我慢しきれなかったんだからここに来ていたわけだが、それでも俺はよくやっていた方だと思う。他に同じ境遇にいたやつがいるかどうかすら知らなかったが、ああいった捕われの身同然の環境の中では、俺はいくらかずる賢い方だっただろう。
 特に嫌なことがあった日にはここで何時間も海を見つめたもんだ。何せ海は広い。どこまでも行けるような気になってくる。じっと見つめているうちに自分の置かれた状況が惨めで仕方がなくて泣いたこともあったが、それでもあの小さな部屋で過ごしているよりはましだ。
 例えば、サガから聖闘士の訓練を受けることになったと聞かされた時。それから、サガが黄金聖闘士になった日。それから――と思い浮かべていてふと気付いたのは、どれもこれもサガと自分の違いを見せ付けられた日だったということだ。サガはこうしているのに俺はやっていない。サガにはできるのに俺にはできない。そういうことを痛感した時に限って俺はここに出向いていたような気がする、って俺は馬鹿か。今さっき言ったとこだろう。『俺は俺だ』って。

 砂浜に腰を下ろしたはいいが、どうも頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、俺はそのまま寝そべった。きっと背中一面に砂がついただろう。髪の毛だって砂まみれだ。きっと部屋に帰ったらサガが怒る――。

「ああ、何だ。サガが、サガがって!」

 思わず叫んでいたのはそんな一言だった。もう一度言う。俺は馬鹿か。何でもかんでもサガが、サガがって俺はいつからこんなにサガサガ言うような奴になってしまったんだ。サガなんて関係ない。ああ、そうだ。全然関係ないんだ。サガなんて、名前でなんて呼んでやらん。『あいつ』で十分だ。

「あいつのことなんかもうどうでもいい」

 だが、そうやって口に出したとたん、言いようのない寂しさが襲ってきた。どうでもいい? 本当に俺はそう思ってるんだろうか。そう改めて考えてみれば答えを出すのは簡単だった。――どうでもいいなんて嘘もいいところだ。
 そもそも、どうでもいいと本気で思っているのなら、サガのことでこんなに腹立たしくはならない。こんなに悩んだりもしない。じゃあ、俺はサガのことをどう思ってるんだ?

 気付いた瞬間、俺は慌てて立ち上がっていた。こうしてはいられない。どうせサガのことだ。ここのことだって知らないし、きっと探そうとしたら闇雲にあちこち走り回るに決まってる。あちこち走り回って俺を見つけ出した挙句今度は「今までどこをほっつき歩いてたんだ!」って目を吊り上げて怒るに決まってる。一日に何度も怒られるなんてまっぴらゴメンだ。
 そういえば、サガはまだ怒ってるんだろうか。いや、もし怒っていたとしても、ちゃんと理由を説明したらわかってくれる。見た目とは違って驚くほど短気なやつだが、こっちがちゃんと話をすれば、真剣に耳を傾けてくれる。今までだってそうだったじゃないか。
 とりあえず、海底に行く話を今日まで黙っていたことは謝ろう。そうしたらきっと、サガだって理由を聞く気になれるだろう。行くなとはっきり言われたわけでもないし、そりゃ計画を練っていたらしいサガには悪いけど、俺にだっていろいろあるんだってわかってくれないわけじゃない、と思う。
 そんなことが頭の中で何度もループしながらも、気付けば白羊宮の前まで来ていて、俺は一度息を落ち着けることにした。軽く深呼吸をして、体中についた砂の残りをできるだけ丁寧に落としてから一歩を踏み出す。さっきまで声の聞こえていた白羊宮も今は静まり返っている。どうやら二人とも寝たらしい。そのまま金牛宮に足を踏み入れさっさと通り過ぎる。アルデバランはきっともう寝てるんだろう。いつもこれくらいの時間には眠ってる。その代わり、朝はこっちが寝てるうちから起きて何やかんやとやってるみたいだが。
 そうこうしているうちに目の前には見慣れた双児宮がそびえ立っていた。ここまで来て俺は今まで気付かなかった疑問に気付いた。俺はサガがここにいるつもりで帰ってきたが、サガがもし出かけていたらどうすればいいんだ。

 だが、扉を開けてすぐにそんな疑問は抱かなくてもよかったことがわかった。目の前のソファにだらしなく座り込んでいるサガがいたからだ。あんな姿はほとんど見たことがない。いつも背筋を伸ばしていて、たとえソファだとしても寝転ぶことなんてほとんどないサガが、半ば床に引きずられているみたいに足を伸ばしてソファにもたれかかるように座っている。表情もどこかぼんやりとしたものだ。
 それなのに俺が入ってきた瞬間、さっと頭だけを動かした。別に放心していたわけではないらしい。

「お前の行った場所がわからなくてな」

 ふいにサガがそんなことを口走った。探しに出ようとしていたのか。そのまま自分の横を指差すので、それに従ってサガの横に腰を下ろす。なぜか自分でもわからないほど緊張しているのがわかったが、それもサガが俺の手を握ったことで、まるで氷が溶けるように消えてしまった。

「怒鳴ったことは悪かったと思っている。だが、こんな直前になってまで言わないお前も悪い」

 普段ならいろいろ問い詰めてくるはずなのに、それすらせずサガはいきなりそう言ってきた。ああ、さっさとこの話を終わらせたいのだろう、と直感で気付く。いつもまどろっこしいことを言うサガが、直球で話題を投げかけてくる時はたいてい、さっさとその話を終わらせたいか、その話だけをしたいかのどちらかだが、今回はきっと前者なのだろう。だから俺は正直に謝った。それからはこれほど悩んでいたのが嘘みたいにとんとん拍子に話が進み、俺がここに戻ってくる道すがら考えていたことも、ずっと黙っていた理由も、まるで自分ひとりで紙に書き綴るようにさっさと出てしまった。それに少々拍子抜けもしたが、何だかんだと言われるよりずっといい。

「ところでカノン」

 話がひと段落ついたところでサガがそう言った。「今、何時だと思っている」
 その言葉にふと壁にかけられた時計を見ると、十二時を十分ほど過ぎていた。ああ、もう日付がかわったのか。

「私は今日は特別な日だと思っている。だからお前に側にいて欲しかった」

 そう素直に言われてこっちは面くらってしまった。そこまでストレートに言われるとかえって返事をするのが恥ずかしくなる。それは俺だって同じだが、いざ口に出そうと思うと恥ずかしすぎてうまく声が出ない。だから代わりにふと思いついたことを口にする。

「俺だって特別だと思ってる。だから、今日は特別な場所に連れて行ってやろうかななんて――」
「それはお前がついさっきまでいた場所のことか?」

 ……どうしてすぐにわかったんだろう。サガはこういう時に限ってやたらと勘が鋭くなる。

「それは非常に光栄なことだな。だがそれより前に――」

 そこで言葉を止めてサガはじっと俺を見た。瞬時に俺の背中を嫌な汗が伝う。ああ、もう言わなくていい。そういう目をする時は百パーセント確実に言うことは決まって――。

「ベッドの中でこの日を迎えた喜びを分かち合いたいと思うんだが」

 ああ、言ってくれたな。あまりの的中率に自分でも笑えてくる。でもこう言い出したら聞かないのがサガだ。だからこう返してやった。

「しょうがないから付き合ってやるよ」


THE END