[サガと俺のニューイヤー'05]
夢なら早く覚めてくれ――。それが新年の朝が明けて最初に思ったことだった。
いつものように目を覚まし、律儀に付け替えられたカレンダー(もちろん付け替えたのはサガだ)を見て、さらに昨晩の飲み会を思い出して、そういや新年だったな、とリビングまで出てきたらこれだ。
壁は金色と赤の縦じまの幕で四方すべてを覆われ、時計の上にはよくわからんが頭の赤い鳥が翼を目いっぱい広げていた。そのまま視線を巡らせると、扉のところに竹のようなものが金色の紐で縛られた置物が両脇にある。……新手のクリスマスツリーか? クリスマスはもう終わっただろうに。呆れながら扉の上を見ると、今度は太い紐の真ん中にオレンジが飾ってあった。横から白いものが垂れ下がっている。ああ、きっとあれはクリスマスリースのつもりなんだ。サガの奴め、やっぱりクリスマスと勘違いしてるんじゃないか。いくら去年のクリスマスが仕事でつぶれたからって、年が明けてからクリスマスなんてやらんでいいのに。やるなら去年のうちにやっとけよ。
それにしても本当に落ち着かん部屋だな。まあ、二、三日したら飽きるだろう。とりあえず、どこでもいいから座りたい。そう思って俺はいつもと同じようにソファに座った――つもりだった。
ソファがない、と気付いた時にはすでに遅く、腰、頭と続けざまに床に打ちつけた。痛いなんてもんじゃない。痛すぎて喉の奥で声がぐるぐる回るだけで、叫び声も上げられない。
「むッ。なんだ、カノン。朝から床に寝転がっているとは。あまり感心できんな」
馬鹿か、お前は。俺だって何が悲しくてお前にこんな姿見られにゃならんのだ。
「カノン。人の話を聞きなさい。……まったく新年から小言などを言う羽目になるとはな」
同感だよ。新年からお前にいらん小言を聞かされる身にもなってみろ。そうだ。ここにソファがないのもサガのせいだ。サガがこんな妙ちくりんな改装さえしなければ、ソファがないことに気付かないまま座ろうとして、こうやって床に倒れる目に合わなくてもよかったんだ。
あ、文句でも言ってやろうと思ったらどんどん痛みがマシになってきた。よし、今だ。
「おい、サガ! お前のせいで俺は――」
「何をわめいているのだ。それより早く、こっちに来い」
手でさっさと払われて、さらに口を開けようとした俺の目の前で布団がまくりあげられた。よく見るとその中は赤々としていて、見るからに暖かそうだ。そう思った瞬間、背中をぞくっと寒気が走り抜けた。考えてみればTシャツとハーフパンツで起きて来て、何も飲まずにあの冷たい床へと寝転がったんだ。寒くならない方がおかしい。
くそっ。今のところは勘弁してやるぜ。心の中でそう呟いて俺はその布団の中に潜り込んだ。……あったかい。素足にじんわりと熱が伝わってきて、思わず泣きそうになったのは秘密だ。
サガは、と思えばキッチンから何か黒い箱を持って出てきたところだった。いったいいつの間にキッチンに行ったんだ。相変わらず謎の多い男め。
「さあ、朝ごはんだ」
そう言ってサガが箱のふたに手をかける。そういえば、昔から新年の朝はサガは腕によりをかけて料理を作るんだった。去年はそりゃ腹がはちきれそうになるほどたらふくと食ったもんだ。とたんに腹が鳴り出す。それをなだめながら、サガの動きを見守っていると一瞬、期待のあまりかその箱の中からぱあっと光が差したように見えた……がそれはすぐに消え、代わりにひどい落胆がのしかかってきた。
「なんだ、この……まずそうなメシ」
思わずそう言ってしまうほど、まずそうな料理が箱の中にはぎっしり詰まっていた。しかも一つだけじゃない。サガが持ち上げると同時にその下からまた新しい料理が出てくる。合わせて三つ。まずそうな料理のオンパレードだ。
「ふふっ。うまそうで言葉も出んか」
いや、今言ったとこだろう、「まずそう」だって。聞こえてなかったのかよ。
「今年は例年とは趣旨を変えて和風にしてみたのだ。何と言っても、我らがアテナは日本の方だ。一年の始まりぐらいそれに習って日本を満喫するのも悪くはあるまい」
悪い。悪すぎる。そもそもアテナは日本人じゃない。こっちの人間で、育ったのが日本ってだけだ。しかも『例年』って何だ、『例年』って。十三年ぶりに二人で新年迎えてまだ二回目だろうが。
ちょっと待て。さっき和風とか何とか言わなかったか。だったらもしかして――。
やっぱり。目の前に差し出されたのは箸とかいう二本の棒だった。使えるか、こんなもん。頼むからナイフとフォークを出してくれ。あ、あとよかったらスプーンも。
だが、俺の願い虚しく、席を立とうとする気配はサガにはなかった。それどころか、俺にいきなり立ち上がれなんて言ってくる。何なんだと思いつつ言うとおりにしてやったら、今度は膝をつけだなんて言ってきた。本当に何だ。もうまずそうとかそんなのヌキにして、俺は腹が減って死にそうなのに。
それでもサガの視線に負けて、俺は素直に従うことにした。別に怖かったからじゃない。今ここで逆らえば、朝メシ抜きにされそうだったからだ。
「そうだ。そのまま腰を落として……やればできるではないか」
晴れやかなサガの顔とは対照的に俺の気分は最悪だった。何だ、この座り方は。どこかおかしいぞ。
しかし、サガは俺と同じように座ると、平然と背筋を伸ばした。そのせいで座高が上がって、上から見下ろされてるようで非常に気分が悪い。最悪を通り越して今ならもれなく限界突破だ。
しかし、ここでキレてしまうほど俺も子供じゃない。サガと同じように背筋を伸ばすと、元から同じ身長だからか、目線がしっかりと合った。どうだ、俺だってこのぐらいできるんだ。
勝ち誇った笑みでサガを見返してやるとサガはむっと……はしなかった。代わりに先ほどに輪をかけてご機嫌だ。――何かむかつく。よくわからんがむかつく。
まあ、そんなことはどうでもいい。今はそれよりもメシだ。俺は箸を握ると一番うまそうに見えたエビへと狙いを定め――。
「いってえ!」
「馬鹿者! まだ新年の挨拶も済ませておらんではないか!」
おい、そんなに怒鳴らなくても聞こえてるよ。ああ、かわいそうな俺の手。新年早々サガの馬鹿力ではたかれて。今年もいいことないんだろうな。
「そんな行儀の悪い子に育てた覚えはないぞ」
俺もお前に育てられた覚えはないぞ。喉まで出かかったそんな言葉を飲み込んで、俺はサガのやりたいようにさせてやることにした。どうせ言うことを聞かないと、あの火が通って真っ赤になったうまそうなエビにもありつけない。
「そうだ。ちゃんと箸を置いて、まずはちゃんと手を膝に置け」
こっちがやるまでじっとこっちを見てくる。まったく、監視されてる気分だ。たぶん、気分じゃなくて本当に監視されてるんだろうけどな。
すごすごと手を置くと、サガは満足そうに頷いて、いきなり何かを言って頭を下げた。そう、あのサガが、俺に向かって頭を下げたんだ!
きっとアレだ。去年俺に働いた悪事の数々を今この新年の始まりをもって頭を下げてチャラにしようという魂胆なんだ。だが、そうはいくか。これに便乗していろいろと無理難題を押し付け――は? 俺にも同じことをしろだって?
冗談じゃない! なんで俺がサガに頭を下げにゃならんのだ! 俺は第一、何も悪いことなんか……したけど、その都度謝っただろうが。それを何でまた今謝らないとならんのだ。サガめ。許したふりをして案外根に持つ男だったんだな。二十八年(−十三年)気付かなかった俺が馬鹿だったぜ。
「カノン、何か勘違いしているのではあるまいな?」
ふいにサガがそんなことを言った。勘違い? 何が言いたいんだ。
「ふん。大方、私が頭を下げたことで自分が優位に立ったつもりだったんだろう。だが、これはただの挨拶だ。第一、お前に頭を下げるようなこと、このサガはいっぺんたりともした覚えはない!」
サガは、はっきりきっぱり言い切った。一体その自信はどこから来るんだ。俺でももうちょっと謙虚だぞ。あまりにも堂々すぎて何も突っ込めんだろうが。
だが、黙っていたのがよかったらしく、サガはふっとため息をつくと諦めの言葉を吐いた。
「まあ、私と違って日本の文化を解さないお前に無理強いをするのも可哀相だからな」
そんな嫌味をばっちり込めて。めちゃくちゃ癪に障るが、それも新年早々サガに頭を下げるという屈辱からしたらかわいいもんだ。諦めてくれてありがとうよ、兄貴さま。
そんなこんなで俺はようやく食事にありつけることができた。ああ、エビがうまい。この味付けも軽い塩味があっていいではないか。
サガを見やると黙々とニンジンをつまんでは食べ、つまんでは食べを繰り返していた。こいつそんなにニンジンが好きなのか。俺は嫌いだから全部食ってもいいよ。
とりあえず、茶色い芋はまずかったからもう食べないことにして、俺は料理をざっと見渡した。どれもこれも似たようなもんばかりだが、一つだけ異彩を放つものがあった。いつもよりサイズが小さいが、あれは間違いなくゆで卵だ。サガはまだ手をつけていない。奪い取るなら今のうち。腕を伸ばしても届かないその場所に箸を届かそうとふいに腰を上げたその時――俺は自分の身に起こっていた異変に気付いた。
小さいうめき声が口から漏れると同時に、俺は横に倒れていた。それもそうだ。立とうとしても足に力が入らない。むしろ、力を入れようとすると、痺れた足に衝撃が走り、まったく動けない。まさかサガめ、この料理の中に毒でも仕込んだんじゃないだろうな!?
いや、と考え直す。よくよく考えればおかしくない。俺が色々と食っている間、サガはニンジンと芋しか口にしていない。そうか。毒を仕込んでいたから、自分は安全なものだけを食べていたというわけか。
今は足を痺れさせているだけでも、瞬く間に全身に広がって、最後には心臓の動きを止めてしまう、きっとそういう毒がこの料理には仕込んであったんだ。
ああ、サガよ。そんなに俺が嫌いか。俺はちょっとでもお前と一緒にいられるよう努力してきたというのに、その間、お前はこうやって俺を消すことばかり考ていたんだな。まったく、双子座のAB型は二面性があると言われ続けていたが、この兄こそそれの見本のような男だったのだ。
暑い日に笑いながら汗をぬぐってくれたことも、寒さに凍えて帰ってきた時にあったかいコーヒーを差し出してくれたことも、それからクリスマスに俺がずっと欲しがってたクリスマスツリーを買ってくれたことも、全ては俺に不信感を抱かせないための演技だったんだ。
俺は悲しいよ。確かに俺はわがままだったけど、自分なりに精一杯サガのことを愛してきたつもりだった。だけどそれもサガには通じてなかった。それが残念だよ。だけど、俺はちょっとしか恨まないぜ。だってサガのことが好きだからさ。
でもさ、せめて土に埋めてくれよな。ほったらかしで鳥に食われるとか、海に放り込んで魚のエサになるのだけはご免だ。もし埋めてくれるなら、海の見える丘の上がいいな。俺、海大好きだし、何よりいっぱい思い出があるから。それで、そこに墓碑を立てて何か刻んでくれたらいい。そうだな、『サガの半身・カノン ここに眠る』くらいがいいな。そしたら、それを見た何十年後かのちょっと丸くなったお前が、泣きながら墓碑に俺の大好きなビールをかけてくれるだろうからさ。それで、俺はその泣き顔を見て、やいサガ泣くな男だろうって叱咤してやるんだ。幽霊だけどな。
馬鹿、そんな目で見るなよ。それとも何だ? この期に及んで毒を盛ったこと、少し後悔して――。
「何をうすら笑っているのだ。さっさと起きて食事を続けんか」
は? 何言ってんの? 俺はもう長くないだろう。なのにまだ毒入りの料理を食えって言うのか。頼むから勘弁してくれよ。そんなに必死なお前の姿、俺は見たくないよ。
「まったく。だらしのない奴だ」
サガはそう言って眉をしかめると、俺の脇に手を突っ込んできた。ええっ? 何だ、死ぬ前に一発ヤっておこうってことなのか? 確かに俺、お前のこと好きだけどそんな慰みものには……ってあれ?
「十数分正座をしただけで足が痺れるとは。日ごろの鍛錬のなっていない証拠だ。兄としてこのサガ、非常に悲しいぞ」
さも情けないと言わんばかりに首を振るサガには構わず、俺は自分の足元を見た。ちゃんと立っている。自分の足で、床に立っている。まだ少し痺れてはいるが、さっきよりもずっと軽い。
「何? もしかして毒なんか盛って……」
「毒!? 何を言っているのだお前は」
恐る恐る聞いたその問いに対してサガは意外そうな顔をした。それにまたご丁寧に俺が説明してやると、驚いたりため息をついたりとせわしなく動いていたサガの表情がやがてぴたりと止まった。
「カノン。この私を何だと思っているのだ。第一、私が本気でお前を殺そうと思うのなら、毒などと小ざかしい真似などせんと、この拳でお前の心臓を一突きにしているぞ」
そんなえらく物騒なことを言ってサガはまた自分の座っていた場所へと戻った。ああ、サガを怒らせて「殺したい」と思わせるのは止めておこう。そんな痛そうなやり方で殺されるくらいなら、まだサガのご機嫌を取りながら生きている方がマシだ。
俺が自分の席に落ち着くと同時にサガが立ち上がった。何をするんだろうと見ていたら、キッチンからフォークを持って戻ってきた。おお、フォーク! 俺はそれが欲しかったんだ。
「お前の食べ方を見ていると、いつこたつ布団の上にものを落とすか心配で心配で……」
小言を言いそうになったサガを遮って、俺はありがたくそのフォークを頂戴した。これで格段に食べやすさが変わる。さすがはサガ。俺のことをよくわかってるぜ。
「今年は甘やかさんつもりだったんだがな……」
まだぶつくさと呟いているサガは無視して、俺は大好きなゆで卵を口の中へと放り込んだ。
その後は何事もなかったかのように食事も終わり、最後にサガは小さな袋をくれた。何でもお年玉とかいうものらしい。年上の人間が年下の人間にやるもんだそうだ。本当は子供にしかやらんが、せっかくだしということで俺を含む黄金聖闘士全員(ただ、教皇と老師にはナシらしい)に配ることにしたと言う。
ならば、俺より年上の教皇や老師もくれるのかと尋ねたら、老師はまだしも、教皇に限ってはあり得ないだろうな、という答えが返ってきた。確かにあのじいさん、女子供にはやたら滅多に優しいが、俺たちにはめちゃくちゃ口うるさい上に厳しいもんな。昔かわいがられた身でもさすがに無理か。
ようやくサガから開放された俺は、酒でも飲みにデスマスクたちを誘うことにした。金はあんまりないけど、あちこちの倉庫を探れば、酒の十本や二十本くらいすぐに集まるだろう。
その道すがらさっきの袋が気になって、ちらりと中身をのぞいた。何かが折りたたまれて入っている。それが金だというのを理解するのにたぶん一秒もかからなかっただろう。
「日本のニューイヤー最高!」
俺は中に入っていた20ユーロ紙幣を握り締めて叫んだ。こんなんなら何べんでも和風とやらに付き合ってやるぜ! まかせろ!
俺は足取りも軽く巨蟹宮を目指した。まさかその数分後、サガがよこした袋の中身が俺だけ皆の半額しか入ってなかった、なんて事実を知るなんて露にも思わずに。
THE END