[vase]


「カノン。今夜は一緒に寝よう」

 夕食の時にいきなりそう切り出してきたのはサガだった。

「昨日も一緒に寝ただろうが」

 その前も、さらにその前の晩も同じベッドで眠った――いや、『眠った』とは言いがたいが――記憶があるカノンはまたどうしてだと言わんばかりに平然とコーヒーを飲む兄の顔を穴が開くほど見つめた。

 しかし、その視線に気付かないのか、サガはそっとソーサーにカップを置くと、まるで意味のわからないこちらが悪いとでも言うような視線を投げかけてくる。

「わからんか?」
「まったくもって意味がわからんな」
「そうか」

 それだけ言うとさっさと食器を片付けだす。
 てっきりいつもの説教じみた言葉が返ってくるのかとばかり思っていたカノンは、サガのその行動にいささか面食らって。

「サガ、言いたいことがあるんならはっきり言え」
「言いたいこと? 特にはないが。――愛の言葉ならいくらでも囁いてやるがな」

 そのとぼけた答えにカノンは顔を真っ赤にする。
 兄が自分の中でのみ答えを出してカノンに言わないことはしばしばあるのだが、こうも歯切れ悪く引っ込められ、あろうことかからかうようなことまで言われては、彼のやり方に慣れているカノンとしても腹立たしいことこの上ない。

「お前が教えてくれないんなら、ほかのヤツに聞くからいい!」
「他のやつらにはわからんと思うがな」

 席を立ってドアへと向かったカノンの背中にサガの声が追いかけてきたが、カノンはそれを振り払うように頭を数回振ると、ドアを閉める音も荒々しく出て行ってしまった。

「本当にわからんのだろうか」

 水を張った流しに皿を放り込みながら、サガはふいに首をかしげた。



「なんなんだよ、『なんでも自分は知ってます』みたいな顔しやがって!」

 カノンはそう叫ぶと足元の岩を蹴りつけた。
 よほど感情が高ぶっていたのか、小宇宙さえコントロールできずに衝撃を受けた岩がさらさらと粉末になって宙に舞う。
 その砂粒がふわりとカノンの目に入り、激痛を引き起こす。

「いってぇ……ってくそ!」

 目をしきりにこすり、痛みを和らげようとして自分が涙を流していることに気付いた。
 異物を洗い流すための涙ではなく、感情が溢れて流れ出した涙。
 止めようとしてもカノンの意思に反して涙は流れ続ける。

「くっそー! どれもこれもサガのせいだ!」

 声を張り上げ、サガへの思いつく限りの罵詈雑言を吐き出すと、カノンは目の前にあった小屋へと滑り込んだ。
 壊れた鍵の代わりに内側から棒を立てかけ扉を閉じると、ふいに安堵の息が漏れた。

 暗い室内は、うっすらとほこりが積もり、歩くたびにふわりと舞い上がってはカノンの脚にまとわりつく。

「数ヶ月来なかっただけでこれか」

 容赦なく喉に入り込んでくるほこりに咳き込みながら、カノンは慣れた仕草で一番奥の扉を開ける。
 そこには少し小さめのベッドと、今はもう水すら枯れてしまった花瓶が置いてある。
 その花瓶は以前に割れたことがあるのだろう。欠片ごとに丁寧に組み立てられ、開いた穴にはしっくいが埋めてあった。

(そういやこれ、三回――いや、四回は割ったかな)

 手に持ってみるとガラスが透けて光は通るものの、あちこちが埋められているせいで、床に映る影はなんとも無様なものだった。

「ツギハギだらけなんて、俺にそっくりだ」

 自分はいつもサガにあって自分にないものを別のもので埋めることで生きてきた。
 体力も筋力も頭脳も、そして『双子座の継承者』という地位でさえ優秀な兄は独り占めにしてきた。
 唯一平等に与えられたのは父親と母親から譲り受けたこの外見だけ。それ以外はまったく似ても似つかない。

「双子なのにここまで違う」と何度も言われ、そのたびに唇をかみ締め、必死になって努力した。
 自分に不足しているものを補い、少しでもサガと同じようになろうとした。

 ただ、優秀すぎたのだ。カノンが劣っているわけではなく、サガがあまりにも秀でていた。それだけのこと。
 それだけのことなのに、自分はここで数年間も『存在しないもの』として過ごしてきた。
 この花瓶も、その生活がどんなに悲しいものだったかを物語っている。

 ――聖衣をまとったまま笑顔で帰ってきた兄にこの花瓶を投げつけたのだ。

 サガの聖衣に当たった花瓶は砕け、破片をよけようとしたサガの顔には細い切り傷ができた。
 しかし、おそらくカノンなら相手に対して怒りを爆発させているだろうその行いをサガはただ黙って受け止め、破片を集めると居間へと消えてしまい、そのままその晩は会うことがなかった。

 翌朝、目覚めたカノンのベッドの横には、破片が繋ぎ合わされ小さな花が一本挿された花瓶が置いてあったのだ。
 そしてその晩、昨日と同じようにカノンに会いに来たサガは、聖衣ではなく汚い着古された訓練着を着ていた――。


 一度だけ、サガがこの花瓶を直しているのを見たことがある。
 あの時も同じようにカノンが感情に任せてサガに花瓶を叩きつけたのだ。

 何時間ほど経ったのだろうか。真夜中だったことは覚えている。
 外へ出たくなったカノンが寝室の扉を開けると、食卓の上に覆いかぶさるようにして破片と格闘しているサガがいた。
 サガは破片を光に透かしながら、ジグソーパズルを組み立てるように一つ、また一つと破片を花瓶へと戻していく。
 その横顔は真剣そのもので、カノンがのぞいていることすら気付かない。

 さすがにその横を通るのは気が引けたカノンは、黙って寝室の窓から外へと出かけたのだった。



「嫌なことを思い出してしまった……」

 手のひらでころころと光を変える花瓶を持ったまま、カノンはそう呟いた。
 考えてみればこの花瓶もサガに買い与えられたもの。

 ちょうど二十年前。サガが黄金聖闘士になって初めて行った視察先で買ってきたものだった。
 聖域ではほとんどその雰囲気は見られないが、ちょうどサガが出かけたイタリアはクリスマスムード一色。

『つい浮かれて買ってきてしまったんだ』

 そう笑って手編みのマフラーと一緒に渡された赤いガラスの花瓶には、翌日カノンがサガに贈った小さな花が挿されていた。

『来年も、再来年も一緒にこうして過ごそうね』

 朝日を受けて光る花を見ながら、そうやって小指を絡めて約束をしたのだった。


 ――こうしてはいられない。

 カノンは慌てて立ち上がるとほこりが巻き上がるのも構わず小屋から飛び出した。
 後ろで扉が閉まらずにキィキィと音を立てていたがそんなものに構ってはいられない。

「カノン様、どちらへ?」

 たまたま通りかかった見張りの雑兵が声をかけたが、カノンは立ち止まることなく走りぬけた。

「ちょっと町まで行ってくる!」



 息を切らして訪れた先はロドリオ村。
 その村の真ん中を通るレンガ道を走って閉まりかけの小間物屋へとカノンは駆け込んだ。

「おお、聖闘士様。いかがなさいましたか?」

 主人がカノンの顔を見て、愛想のいい笑いを浮かべる。
 カノンは狭い店の中を横切り、主人がいるカウンターまで歩いていくと、息を整えるために二、三回深呼吸をした。

「ここに花瓶はあるか?」
「は? ああ、花瓶でしたらいくつかそろえておりますが」
「ガラスの小さな花瓶が欲しいんだが」
「ガラス製でございますね。一輪挿しのようなもので?」
「そうだ。よろしく頼む」

 カノンの切羽詰った状態に不思議さを隠さずとも、主人は店の奥へと引っ込んだ。
 やがてカノンの前に現れた主人の手には、細長い箱が抱えられていた。

「今はこれしかございませんが……」

 そう言って開かれた箱の中に入っていたのは黄色の花瓶。
 思わず、「黄色か」とうなったカノンの顔色を主人が見て、さっと箱を閉じた。

「もし他の色をご所望なら次の買出し時に探して参りますが」
「いや、これでいい。いくらだ?」
「いえそんな! 聖闘士様からお代を頂戴するなど!」

 慌てて手を振って否定する主人の前でカノンはポケットを探る。
 さっと箱に目を走らせると『1700』と書かれたものが消され、その横に『5EURO』と走り書きがしてあった。
 それを見たカノンはポケットから掴み取れるだけのコインを出し、カウンターの上に並べる。

「1、2、3……くそっ!」

 ポケットの中をすべて出しても、5ユーロには満たない。
 どこかに紙幣を突っ込んではいないものだろうかと、ズボンのポケットを探るが何も出てこない。

「あの、お代は本当に結構でございますから――」
「だめだ!」
「しかし、聖闘士様からお代を頂戴するなど恐れ多いことでございますゆえ……」
「だめだったらだめなんだ! 俺がこれを買わないと――」

 カノンの真剣さに何か感じたことがあったのだろうか。
 主人はその指をすっと伸ばすと一番小さな――1ユーロセントの――硬貨をつまむとにっこり笑った。

「それではこれだけ頂いておきます」
「しかしそれでは――」
「もともと倉庫の中に眠っていたものでございます。貴方様に貰っていただくだけでお釣りが来るようなもの」

 そういうと主人はカウンターの下から布を取り出し、ガラスの花瓶を丁寧に拭き始めた。
 少しぼやけた感じだった花瓶がみるみる光を集め、初めに見た時よりもその黄色が濃くなっていく。

「どなたかへの贈り物でしょうか?」
「あ、ああ。その、兄への」
「ならば、これなどよろしいでしょうね」

 カウンターの下から今度は深い紺色の包装紙を取り出すと、手馴れた感じでさっさと箱を覆っていく。
 最後に脇に置いてあった金色のリボンを回し、最後に結び目を調えるとその箱をカノンの方へと差し出した。

「これでよろしいでしょうか」
「ああ。……ありがとう」
「いいえ。これからもどうぞごひいきに」

 店の外まで送りに出てくれた主人に別れを告げ、カノンは夜の帳が落ちた町を聖域へと向かって駆け出した。
 つまずかないように足元に気をつけながら、いくつもの岩を飛び越えていく。
 やがて、いくらか息が上がってきた頃、目の前に十二宮がそそり立つ山が見えてきた。

「カノン!」

 ふいに自分を呼ぶ声が聞こえて、カノンは走るをやめた。
 どこからだろうと見渡せば、目の前の暗闇の中からサガがこちらへと近付いてくる。

「どこに行っていたんだ?雑兵に会ったが『町へ行ってくる』と言ったきり見ていないというから――」
「ちょっとロドリオ村までな」
「あんなところまでいったい何をしに……?」

 首をかしげるサガを置いてカノンはさっさと歩きだす。
 後ろから追いかけてきたサガが隣りに並び、二人で他愛もないことをしゃべりながら双児宮へと向かう。
 ただ、箱の中身について聞かれてもカノンは一言も答えなかったのだが――。



「それで、何をくれるというんだ?」

 ソファに腰を落ち着けたサガが、目の前に差し出された箱を受け取りながらそう尋ねてきた。

「いいから開けてみろって」
「はいはい。わかったよ」

 金色のリボンをほどき、紺色の包装紙を開くとそこには白い箱が納まっていた。

「ほう、花瓶か」

 サガが感嘆の声をあげ、中から黄色の花瓶を取り出す。
 それは居間の少し暗めの電球に反射し、オレンジとも金色ともつかない色を反射していた。

「今日な、前俺が住んでた小屋に行ってきたんだ」

 ぽつりとカノンが呟いてサガは目を見張った。

「お前、あそこには行きたくないとさんざん言っていたではないか」
「でもな、前からちょくちょく行ってたんだよ」

 それからカノンは話し出した。久しぶりに訪れた自分の家『だった』場所のこと。
 寝室に飾ってあった花瓶と、それを割っていた頃の二人のこと。

 自分でも驚くほどすらすらと感情の赴くままに言葉が紡がれる。
 それを黙って聞いていたサガが声を出したのは、もうほとんど終わりの方だった。

「あの花瓶はな、昔言ったようにいわゆる衝動買いをしたものだったんだ」

 サガがどこか遠い目をしてふとそう言った。

「お前の部屋にあまりにも色がないものでな、店頭で見つけた時に慌てて買いに入ったのだが――」
 そこまで言ってサガは何かを思い出したのかクスクスと笑った。「お金が、足りなかったんだよ」


 店に駆け込んでその花瓶を掴んだはいいがお金が足りない。
 泣きそうになりながら花瓶を棚に戻そうとした時、声をかけてきたのはもう初老だと思われる店の主人だった。

『どうしたんだい、坊や』
『……いいなと思ったんだけどお金が足りなくて』
『そうかい。――それは誰かへのプレゼントなのかな?』

 にっこり笑って聞いてきた男にサガは少しだけごまかしを含めて話した。
 訳あって弟があまり外出できないこと。部屋があまりにも殺風景なのでこの花瓶を飾ってやりたいと思ったこと。

 それを聞いていた主人はサガの手から花瓶を取り上げると、柔らかな布で拭いた後、それが入っていた箱に収め、きれいな包装紙で包み込むと黙ってサガに差し出した。

『ほら、これを弟さんに持っていっておあげ』

 お金のことを口にしようとしたサガに向かって、彼は唇に指を当てると先ほどのように笑った。

『サンタさんに代わって弟想いの優しい坊やに、おじさんからのプレゼントだよ』


 しばらく話をしていたサガがふいに手の中の花瓶に目を落とす。

「時が経つのは早いものだな」

 あの頃は抱えるようにしていたはずの花瓶。
 それとほぼ同じ大きさだというのにカノンが買ってきた花瓶は、サガの手の中に握られているだけ。

「ごめん」そう小さくカノンが言った。
「俺、お前がもらったものだって知らなくって――」

「あれは私がもらったものだが、もとからお前にやるつもりだったんだから」

 花瓶が反射した黄色い光が万華鏡のようにサガの顔を照らした。

「起こってしまったことは仕方がないだろう?それよりも明日からはお前が買ってきたこれを大事にしていけばいいではないか」

 それだけ言うとサガはテーブルの上に花瓶をそっと置いた。
 そして軽く伸びをすると手を叩いてカノンに笑いかけた。

「さあ、昔話は終わりだ。それよりも寝室に行っておいで」
「何かあるのか?」
「もちろん、お前へのクリスマスプレゼントだよ」

 急かすサガに背中を押されながらカノンは自分の寝室へと足を踏み入れる。
 電気のついていない暗い寝室の中、一ヶ所だけがまばゆいぐらいに輝いていた。

 いくつもの電球がまたたき、呆然としたままのカノンの顔を照らしだす。

「サガ、これは……」
「すまん。今のお前が欲しいものがわからんかったのでな。その、昔あれだけ欲しがっていたし」

「それに――」煌くツリーを前にサガが照れたように付け加えた。
「クリスマスの晩は、一緒にツリーを見て過ごそうと約束しただろう?」


THE END