[yours ever]


 恐ろしい、夢を見た。
 カノンとわたしが再び引き離されてしまう夢。

 夢の中の私には何の力もなく、二人の手が離れてしまうまでカノンの手を握ることで精一杯だった。
 何者かが、カノンを連れて闇に消えて。
 カノンの名を叫ぼうとした時に目が覚めた。



 飛び起きた瞬間見えたのは、呆然とするカノンの顔。

「サガ、大丈夫か?」

 そう尋ねてきたいつも通りの声に、ほっと安堵の息をついて一言「ああ」とだけ返す。
 顔がべたついている。拭ってみると、それは気持ちの悪い汗で。

「なんか、寝ながらうなされてたけど?」
「大丈夫だ……。なんでもない」
「本当に、本当に大丈夫なのか?」
「あぁ、少し後味の悪い夢を見てしまっただけだ」

 そう答えると、カノンは少し思案を巡らすような表情をして。

「なんだ。それなら大丈夫だな」

 そう呟くと、隣りに腰を下ろし、持っていた雑誌を膝の上に広げた。


 たまにじっと写真を見つめては雑誌のページを捲っていく。
 その仕草にさえ、言葉にしがたいほどの愛しさがこみ上げてきて。

 その瞳も、その指もすべて私のものだ。
 そう思うと、余計先ほどの夢の恐怖が蘇ってくる。

 連れ去った者の顔は見えず、ただ私の目に映ったのは、無表情のまま手を引かれていくカノン。

 そういえば、前にも似たような夢を見た。
 カノンが、岩牢の中から忽然と消えた日の夜の夢。

 確か、あの晩見た夢も同じような夢だった。





「うわッ……! っていきなり何するんだ!」

 頭の上からカノンの声が響き、頭の下から雑誌がくしゃりとしわを作る音が聞こえる。

「たまには、こういうのもよくないか?」
「全然よくない!」

 カノンの温もりに触れてすっかり安心した私の耳に、目を閉じてでも想像がつきそうなカノンの不満に満ちた答えが降る。

「寝るんだったら一人で寝ろ!」
「いいではないか、兄弟なんだから」
「兄弟だからってこんな……?」

 言葉を紡ごうとしたカノンの唇は、押し当てられた指に仕事を忘れる。
 無論、誰のものでもない、私の指だ。

「この唇は誰のものだ?」

 そう言った私にカノンは瞬間意味がわからないといった表情をしたが、すぐさまその表情のままとぼけたように呟いた。

「誰のって……。俺のに決まってるだろう?」

 あまりにも予想できた答えにふと笑いを漏らすと、ふて腐れたようにカノンが顔をしかめる。

「俺のだったらおかしいか?」
「まさか。その唇はお前のものだよ」

 しかし、と言葉を切ってそっと触れた唇を撫でて。

「この唇は、私のものでもあるんだ」

 その言葉と同時に指を動かす。

「この頬も」

 昔より少し皮の固まった頬を撫で。

「この瞳も」

 触れられて驚いたのか、とっさに目を閉じたカノンの長い陰影を落とす睫毛にそっと触れて。

「肉体の全ての部分から魂に至るまで、全ては私のものだ」

 そう言ってもう一度唇に触れると、少し頬を染めたカノンと目が合った。

「ちょっと待て」
「なんだ?」

 答えると、唇を少し尖らせて。

「全部お前のだったら、俺のものがなくなるじゃないか」

 そんな子供みたいな不平を言うカノンは、年の割りにはあまりにも幼く感じて。

「大丈夫だ」

 そう言って指で唇を数度叩きながら。

「肉体から魂に至るまで、私の全てはお前のものなのだから」



 頬を染めたカノンの首に手を回すと、力を込めて前へと少しずつかがませる。

 互いの唇が触れそうになった瞬間。

「yours ever」

 そう呟いて軽く唇に触れた。





「カノン」
「なんだ? まだ用か?」

 人の顔の上に堂々と雑誌を広げ、黙々と読みふけるカノンに話しかける。

「お前、もう少し脂肪をつけた方がいいのではないか?」
「は?」
「太ももが硬くて、少し寝心地が悪い」

 雑誌を持ち上げたカノンにそう言うと、突然顔の上に雑誌が降ってくる。

「そこに頭を乗せているお前が悪い!」

 その言葉が終わるか終わらないかの間に、さらに雑誌の上から手のひらで叩きつける衝撃があって。

「カノン!」
「人の膝に頭を乗せてるヤツが悪いんだ!」

 そう言って笑うと何度も人の顔を雑誌ごしに叩いてくる。

「こらカノン! やめないか!」

 さすがに我慢の限界を迎え慌てて起き上がると、にんまりと薄気味悪く笑ったカノンと視線がぶつかる。

「サガは俺のものなんだろ? 俺が俺のものを叩いて何が悪い」

 生意気そうに鼻をふん、と鳴らしたカノンが余りにも憎たらしくて。

「ならば……」

 テーブルの上に乗った読みかけの本を手に取る。
 厚さ十数センチはあるかと思われるその本を目にしたとたんカノンはさっと青ざめて。

「ちょっと待て! それは反則だ!」
「どこが反則なのだ。私が私のものを叩いて何が悪い」

 先ほどカノンが言った言葉をそっくり返して、本を頭上高く掲げる。
 とっさに顔をしかめて目を閉じたカノンの頭めがけてその本を振り下ろし。

 コツン。

「いってぇぇぇぇ!」
「どこが痛いものか、この馬鹿者」

 角を軽く当てただけなのに大袈裟に痛がる様を尻目に。

「私は物を大切にする主義だからな。お前と違って」

 鼻でふん、と笑いそう言ってやるといきなり口をつぐみ、私に向かってこれでもかとしかめっ面をしながらソファに寝転ぶ。
 私は、すぐ横に来た頭を軽く本で叩きながら追い討ちをかける。

「少しは私を見習ったらどうだ?」

 その答えは「うるさい、もう寝る」と言ったお決まりの捨て台詞で。



 結局そのまま寝入ってしまったのか、伏せたカノンの顔の方から規則正しい寝息が聞こえる。
 私はといえば、先ほどの騒ぎですっかり眠気が飛んでしまったのか横になっても眠れず、仕方なく手に持ったままの本を開く。
 導入部に惹かれて教皇の間の図書室から持ってきたとはいえ、全体的にはさほど面白くもなく、ただ議論を繰り返すだけの本。余りのつまらなさに、思わず目で字を追うだけになる。

 すると、いきなり頭の中に沸き起こる嫌な疑問。

 あの夢の意味は――

 そう考えて、深く考えることをやめる。

 戦いはもう終わった。
 あれは、遠い未来のことなのだ。

 いつか、数十年後、二人が年老いてから訪れる別れを予見してしまっただけのこと。
 それを私の頭が早とちりして、あの晩の夢とつなげてしまっただけのこと。



 そうだ。
 きっとそうに違いない。


 先ほどの騒動を思い浮かべると、何の根拠もないのに不思議とそれが納得できて。



 気だるい夏の午後。

 自分の考えに決着をつけたとたん、また眠気がぶり返してきて、カノンの頭の横に自分の頭を持ってくると、近付いてくる眠りに身を任せた。


THE END