[望郷]-後編-
「ふるさと、か」
カノンは自室のベッドにその身を投げ出し、小さくため息をついた。
まさかソレントからそんなことを聞かれるとは思わなかった。
いや、それ以前に彼がそんなことに関心を持つとは思わなかったのだ。
そして、それに対してあのように答えた自分も。
「すでにない……」
もう一度自分で言った言葉を呟く。
別にふるさとが消えてしまったわけではない。カノンの故郷――アテネから北東に車で三時間ほどにある小さな町――は、カノンが住んでいた頃とは少し変わったとはいえまだ存在している。
しかし「ふるさと」はない。
カノンにとってのふるさとは「彼」がいるその風景なのだから。
そして「彼」はすでにこの世にはいないのだから。
「サガ……」
そっと「彼」の名を呼ぶ。
自分の双子の兄。かけがえのない自分の半身。
海底神殿に来てからの13年間、絶えず感じていたサガの小宇宙は、二週間前のあの日の夜大きく昂ぶった後弾けるように消えてしまった。
その時わかったのだ。
彼がこの世に別れを告げたことを。
不思議と涙は出なかった。
ただ、深い喪失感に襲われただけで。
そしてカノンの予想通り、その日からサガの小宇宙を感じることはなくなった。
カノンはサガと共に小さな町の小さな商店の息子として生まれた。
そんなに裕福な家庭ではなかったが、幸せな家庭。
その中で二人は六歳までを過ごした。
六歳の時、流行り病で両親が死んだ。
なぜ自分たちが生き残ったのかはわからない。ただ二人で生きていこうと決めた矢先、一人の男によって聖域へと連れてこられた。
聖域での暮らしはカノンにとって苦痛以外の何物でもなかった。
それでもそこに居続けたのはサガがいたから。
日が沈んだ頃、疲れた顔をしながらも必ず自分の元に帰って来てくれたから。
傍にいられるだけでよかった。
それ以下もそれ以上も望むことはなかった。
しかし、その日々は急に終わりを告げる。
それは共に生きてきたサガの突然の告白。そして剥奪。
十四歳になる一ヶ月ほど前のある晩、
自分の中で想いを遂げた男はカノンの知っている兄ではなかった。
驚きのあまり抵抗すらできないカノンをサガは黙ったままただひたすらかき抱き、奪った。
そしてすべてが終わった後、呆然としたままのカノンにサガは秘めた想いを伝えたのだった。
その日を境にカノンはサガを避けるようになり、しかしその反面、サガの気を引くようなことばかりをし続けた。
なぜそんな矛盾を繰り返したのかはわからないが、決してサガのことを嫌いなわけではなかった。
むしろその晩の行為は、カノンのサガに対する想いを自覚させた。兄に抱いたその想いは他でもない、恋人に対する愛情と慕情。
それでもなぜか好意的に接することはできなかった。
結局、カノンは自分の想いを伝えることのないまま海底へと来たのだった。
会いたい。
ふいにそう思った。
なぜか会いたくてたまらない。
その願いが叶わないことはわかっているのに。
「ふるさとか……。帰りたいな……」
そう呟いてふと耳に触れた冷たい感触に顔を上げる。
それは頬を伝って流れ落ちた涙。この十三年間、決して流すことのなかった涙だった。
止まることを知らないそれは零れ落ちてシーツに滲み込んでいく。
それを拭わないままカノンはいなくなった「彼」に思いを馳せた。
この気持ちを伝えていれば今とは違った人生になっていただろうか。
二人でずっと思い出を作りながら生きることができただろうか。
地上で過ごした日々を思い出す。
その風景の中にはいつもサガがいた。
そこで彼はいつも優しく微笑んで、手を差し伸べている。
カノンにとってのふるさとはその風景で。
そのふるさとはすなわちサガのいる場所。
それは失くしてしまった幸せな時間。
もう、二度と帰ることのできない時間。
サガが「サガ」として、
カノンが「カノン」として居た時間。
二人で過ごした二人だけの大切な時間。
今はもう戻れないと知りながらもカノンは想いを馳せた。
ただ、静かに。流れる涙を拭うこともなく。
THE END