[涙の理由]


 僕は知っている。

 その涙の理由を。



 今日も、泣いていた。
 もうここに来て一年になるのに、毎朝、弟が泣かないのを見たことがない。

「行かないでよ、お兄ちゃん……」

 いつもそうやって僕の服の端を握っては泣くんだ。
 僕も本当は行かないで、ずっと側にいてあげたいけど、出来ない。

 僕は早く強くならなきゃいけないから。

 この泣き虫な弟を守れるぐらい、強くならなきゃいけないから。





 ここに来て3年が経った。

「カノン、行ってくるよ」
「うん」

 そっけなく答えたカノンに僕は少しだけむっとした。

 ほんの数年前まではいつも泣いていたくせに。
 そう思うと、なんか悔しいような……寂しいような気になる。

 でも僕は知っている。
 僕が出て行った後、相も変わらずカノンが泣いていることを。

 僕は黄金聖闘士になったのに。
 聖域で一番強い聖闘士になれたのに。

 まだ、弟を守る力は持てないでいる。


 いつになれば、僕は本当に強くなれるんだろう。





 幼い者が次々と黄金聖闘士になっていく。

 私はと言えば毎日、まだ小宇宙の加減もできないでいる若い、いやまだ幼い黄金聖闘士の世話で時間を費やしている。
 各地から星の運命によって集められた彼らは、明日の聖域を守る、立派な聖闘士となるはずだ。

 そのためには、自分の時間を惜しんででも、彼らのために尽くさなければならない。

 もうすぐ、女神が降臨するという話が囁かれている。
 それに比例して、この地にも緊張が走り始めた。


 そういえば、最近、カノンがしゃべるのをほとんど聞いたことがない。
 ただ、たまに家をのぞくと、泥がついたままの服が適当に洗われて干してあったりして。

 この間は、傷だらけの腕を必死に治療していたが。
 いったいどこで、何をすればあれだけ泥だらけになるんだ。

 まさか。
 聖域の掟を破って――。

 いや、それはないだろう。
 カノンはここから出ることは許されないのだから。


 ……まだカノンは泣いているんだろうか。

 私を、想って。





 カノンがいなくなった。
 あの、絶対に抜け出せないと言われていた岩牢から。

 どうやって、と考えてもわからない。
 潮に流された? いや、あの体で抜け出すのは無理だろう。

 ならば、どこかへ消えた?
 どこへ消えた?

 消える場所など、ありはしない。
 異次元に入り込んだとはいえ、あの牢屋からは抜け出せない。


 ならば、どこへ。





 カノンがいなくなってから一月が過ぎた。

 ここ一ヶ月の間、近隣の村から、浜から全て探した。人がまずいないだろうと思われるところも探した。
 でも見つからない。どこにいるかも、いや、生きているのか死んでいるのかさえもわからない。

 なぜ、あのようなことをしてしまったのかと後悔しながらも、私は今日もたいして成果も上がらない捜索をした。何度も岩牢に足を運んだが、逃げ出した形跡もない。
 空になった岩牢を見つめていると、あの日の、私に罵声を浴びせたカノンの姿が浮かんでくる。

 怒りに満ちたその表情には、私への憎しみだけが溢れ返っていて、昔の面影はなかった。

 その憎しみが伝わったのだろうか、
 なぜか私も憎しみが沸々とわきあがり、助けることもなく、毎日満ち潮に苦しむその姿を見に来ていた。

 どうして、あんな感情を抱いてしまったのだろう。
 誰よりも私を必要とし、私を想っていてくれていた者に。

 波しぶきがかかり、少しべたついた頬に何かが流れた。
 少しの間、それが何かもわからずに、ただ流れるままにしていたのだが、ふいに気付いた。
 それが、自分が流している涙だと。

 サガよ、何を泣く? 自分の行いを悔いて泣くのか?
 それとも、自分の半身を失ったことを悲しむのか?

 そのどれも違うのならば、いったい何に対して涙を流すというのだ?





 あれから、十三年が過ぎた。

 その間、一度たりとも忘れたことはなかった。
 自分が殺めてしまったかもしれない命を。
 私の魂の半分を共有する、常に同じ道を歩いてきた「影」を。

 静かな部屋で一人、堅い椅子に座して瞑想をしていると、必ずと言っていいほど浮かんでくる、私と同じ顔をした他人。
 そして、それを想うたびに流れてくる涙を。

 十三年前のあの日、流した涙の理由を私は知っている。
 それは、幼い頃弟が流していた涙と同じ。

 ただ、寂しくて。
 片時も離れず、側にいたくて。
 それが叶わないことが、不安で、切なくて。

 ポセイドン率いる海闘士が、徐々に力をつけてきているという話を耳にした。
 おそらく、目的はこの地上。そして、その中に海龍という男がいるらしい。なんでも、海闘士の中でも顔を見た者はごく僅かだという。

 しかし、私にはわかる。
 海闘士の中でもほとんど顔を見た者はいないと言われるその男の正体が。

 きっとそうだ。
 彼に違いない。

 そう思うとなおさら自分のしたことを悔い、先ほどとは打って変わって悔し涙が頬を伝う。
 なぜ、あれほど大切な者を手放してしまったのか、と。



 お前はまだ、泣いているのだろうか。
 それとも、あの涙など忘れてしまったのか。

 あの頃、自分が流した涙を。
 この兄を想って流された、あの忘れられない涙を。


 私は知っている。
 この涙の理由を。


 カノン。
 お前は知っているのか?

 その涙の理由を。


THE END