[Toast]


 アテナの力により、平和が戻った聖域。

 ここに生きる者の顔には笑顔が溢れ――否、自分の故郷の平和を祈り続ける者もいたが――以前の変に張り詰めた緊張もなく、この平和が今しばらくは続くのだと自然に思うようになっていた。
 多少の喧嘩はあるもののそれは本当に稀で、しかも本当に小さな諍いで終わる。世界中に治安の良さで名の知れる極東の島国でさえ足元にも及ばない、そんな平和が聖域にはあった。

 ある、一部分を除いては。



「で、今日は何が原因だったんだ?」
「それがさ、カノンがトーストの耳を食べないってサガがブチ切れたらしい」
「ふむ。確かにあの男らしいといえばそうであろう」
「そうですね。確かにカノンのわがままが過ぎたことはあるでしょう」

「それにしてもたかがパンの耳でなぁ……」

 デスマスクはそう言うと自宮の少しばかり下、雑兵が群がって修理をしている半壊した双児宮に目をやった。



「どうして貴方たちはこうも……!」

 激しい怒りのためかうまく言葉を紡げない守護神は、その衝動を抑えようと右手に持った杖を床に叩きつけた。
 目の前にひざまづいた男はただうな垂れるばかり。少し視線を上げてはまた落とす、とそればかり。

 なおも女神の怒りは続く。

「わかっていますか? 三億円ですよ? この半月で三億円!」
「そのお言葉ですが、アテナ。ユーロに直すといくら……」
「そんなことを聞きたいのではありません! 私は、貴方たちがなぜこうも愚かな喧嘩をし続けるのかが知りたいのです!」

 ぴしゃりと言い放った彼女にその男――サガはさらにその身を小さくした。

「私は特別お金にとやかく言うつもりはありません。確かに聖域の建造物はひどく老朽化しています。どれほど壊れやすいかということもわかっているつもりです。初めは作り直そうと思いましたがここは聖域、歴代のアテナが守り続けてきた地です。当代アテナである私の一存で作り変えるのもおこがましいと思ったからこそ、我がグラード財団の力をもって修理、保存に努めているのではありませんか。しかし!」

 そこで言葉を切るとアテナ沙織は杖をサガの目前まで突き出し。

「壊せば何度でも修理してもらえると思ったら大間違いですよ!」

 これが最後通告だと言わんばかりの沙織の言葉にサガは身をすくめた。
 この男とて弱い男ではない。その力をもってすれば再び聖域の全権を掌握することも――あの過去の悲劇を起こすことも――可能なのだ。しかし己の罪を悔い改め心を入れ替えた今、彼はそうすることすら頭に浮かばない。ただこの守護神の言葉にうなだれ、己のしでかしたことを反省するばかりなのである。

 うなだれたままの男を見て憐れに思ったのか、沙織は小さなため息をつく。

「いいわ、サガ。顔を上げてちょうだい」
「……はっ」

 恐る恐る顔を上げたサガの目に映ったのは、少し落ち着きを取り戻した沙織の姿。

「ごめんなさい。私も少し言葉が過ぎたわ」
「めっそうもございません! おっしゃられた通りのことで……」
「いいのよ。それより理由は何なの?」
「は?」
「双児宮を半壊させるに至った理由です」
「それが……」

 ――今朝いつものように朝食を作ったところ、少し時間を置きすぎてトーストが軽くこげてしまった。するとそれを見たカノンが「こんなこげたパンの耳は食べたくない」と言った。
 サガはいつもと変わらず「食べ物がなくて困っている人々もいるのにそんな贅沢なことを言うな」とカノンを叱りつけた。それを聞いたカノンが「じゃあこれはお前が食べろ」と言い出し、皿を押し付けようとした。阻止しようとしたサガとカノンは皿を押し付け合い、気がつけば小宇宙をぶつけ合っていた――

 状況を聞いた沙織は唖然とした表情を浮かべて。

「今までで一番……。その、下らない理由ね」
「はい。私もなぜそのような理由でこういう事態になったのかと考え反省しております……」

 語尾を少し濁すように言ったサガは、沙織と共に深いため息をついた。

「……もういいわ。それよりカノンを探してきてちょうだい」
「御意」

 問い詰める気も失せた沙織を残し、サガはアテナ神殿を後にした。



「ただいま」

 そう言っても答える相手がいないとわかっていながらも、サガはその言葉を口にした。
 半壊したのが通路側だったこともあり居住スペースはなんとかその姿を保ったままだったが、縦に真っ二つに割れたテーブルとあたりに散乱した朝食はこの諍いがどれだけ激しいものだったかを物語っている。割れた皿を拾い、めちゃくちゃになった朝食をごみ箱に捨て、サガは一人自嘲に口を歪めた。

 ――何が贅沢だ。何が『食べ物がなくて困っている人もいる』だ。
 私とて、その説教を受けねばならんぐらい物を粗末に扱っているではないか。――

 かつては鮮やかな色をしていたトマトをつまみあげごみ箱に放り込むと、キッチンで手を洗い、サガは軽く背伸びをした。

「カノンを探しにいかなければ」

 ふと呟いて気を引き締めると、サガは先ほど入ってきたドアを押し階段を駆け下りていった。

 カノンのいる場所はわかっている。きっといつも通りあの場所で拗ねたように座り込んでいる。
 そんな確信を胸に抱きながら。



「カノン!」

 潮風が吹き付けるその場所に駆けつけたサガは弟の名を呼び、先端まで走り出す。しかし、予想に反してそこにカノンの姿はない。どこに隠れているのかと思い見渡してもその姿は見えない。元々見晴らしの良い場所なのだから、見落とすこともないのに。

「カノン!」

 もう一度その名を呼ぶ。今度は少し焦りが混じっているような声で。
 しかし風が強く、声は遥か後方へと押しやられていく。

「カノン! どこにいるんだ。返事をしないか!」

 必ずここにいると確信していただけに、サガはどんどん焦りを感じていく。
 まさかここではないのか、ならばどこへ行ったのか、と考えあぐねいていたその時、岬の遥か下の方から知った小宇宙が這い上がってくるのを感じた。
 それは紛れもなく、自分の半身とも言えるカノンの小宇宙。そしてそれが一番強く感じられる場所はこの岬の下、波が音を立てている場所。

「今そこに行くから待っていろ!」

 サガは下の岩場に向かって叫ぶと来た道を大急ぎで戻っていった。



「カノン!」

 心配と安堵の混じった声で呼びかけると、岩場の鉄格子の手前に座り込んでいた己と同じ姿の人間が顔を上げる。

「こんなところで何をしてるんだ」
「何って……反省してるんだよ」

 ばつが悪そうにそう呟き、膝を抱え込んだカノンの横に少し距離を置いてサガは腰を下ろすとその顔を覗き込んだ。

「上にいなかったから心配したぞ」
「いいだろ。たまにはこっちに来てみても」
「しかし、まさかここにいるとは思わんかったな。ここはその、お前にとっては一番忌まわしい場所だと思ってたから」

 二人の背後にある鉄格子の奥は、暗い空間がぽっかりとあいて全てを飲み込んでしまいそうな不気味さがある。ここはカノンが近付くことさえ嫌った場所。そう、十三年前サガがカノンを戒めのために入れた岩牢なのだから。

「……中に入ってたらどうしてた?」

 ふいにカノンがそう呟いて、サガははっと息を呑んだ。

「この中に入っていたら、か?」
「ああ。恐らく今の俺なら自分で中に入ることも可能だろうしな」
「そうだな。だとしたら……」

 サガがふと後ろを振り返り。

「この岬を破壊してでも引きずり出していただろうな」

 そうさらりと言い切ったサガの横でカノンが鼻で笑う音が聞こえた。

「遺跡を岬ごとぶち壊すなんてな……。明日の新聞の一面は決まりだな」
「しかも理由が『双子の弟を救出するため』だ。聖域もさぞ対応に困るだろう」

 言葉を交わし、どちらからともなく声を立てて笑い出す。
 波が岩に当たり白いしぶきをあげる中、どれほどそう笑っただろうか。

「何がおかしい」

 生真面目な声でサガが言う。しかし、カノンに向けられた顔は笑ったままで。

「そりゃおかしいさ。どこの世界にそんなことをする馬鹿がいる」
「いるではないか、お前の目の前に」
「まだ壊してはないだろう?」
「それもそうだな。……この際壊しておくか?」

 そう言うなり拳に小宇宙を集中させ出したサガに、慌ててカノンが覆いかぶさる。

「馬鹿、やめろ! そんなことしたら聖域追放どころかこの地上から追放されるだろうが!」

 大慌てでまくしたてたカノンをサガはきょとんとした顔で見つめて。

「冗談に、決まっているだろう?」
「へ……?」
「私が本気でそんなことをすると思ったのか?」

 呆然としたカノンにそっと顔を近づけると、軽く唇をついばむ。

「お前と一緒なら地獄に落とされても構わんが、私はまだこの地上で平和に暮らしたいからな」

 そう言ってもう一度、今度は深く唇を重ねると、しばらくしてカノンの顔が真っ赤に染まっていく。

「…お前は馬鹿だ! 大馬鹿だ!」

 サガの髪の毛を掴みぐしゃぐしゃにかき回しながらカノンは何度もそう叫ぶ。しかしいくらそう言ってもサガは笑ったままカノンを抱きすくめる。

「本当にお前、どうしようもない馬鹿だな!」
「馬鹿で結構。それよりその手を離してくれないか?」
「……嫌だ! こんな馬鹿兄貴はこうしてやる!」
「こらカノン! 髪を引っ張るな! ……ならば」

 そう言うないなや、サガはカノンの髪を思い切り引っ張る。

「いってぇ! 離せ!」
「お前が離すまで離さん!」
「何を……! 俺もお前が離すまで離さんからな!」

 大声で笑いながら髪を引っ張り合うと、とたんに綺麗になびいていた髪もめちゃくちゃになっていく。それでも手を離さず髪を引っ張り合い、互いしか見えていない二人は後ろに近付いてきた気配にも気付くことなく。

「いい加減にしなさい!」

 突如、後ろからそう叫ばれてサガとカノンは手を止め振り向く。

「ム、ムウ……」
「なんだ。どうかしたのか?」

 意外な人物を目の前にして二人の思考が一瞬止まる。
 その言葉を聞いたムウはさも情けないといった風に首を軽く振ってこう告げた。

「アテナが二人の帰りをお待ちですよ。……かなり怒ってらっしゃるようですが」

 サガはなぜ自分がここに来たのかということを思い出しさっと顔を青くした。
 カノンはといえば、ムウの最後の一言を聞いて同じように顔を青くしている。

「そんな絶望的な目で見ないで下さい。私だって好きでここに来たわけではないんですから」
「す、すまん。すぐに戻るとアテナにお伝えしてくれ」
「わかりました。その言葉を信じてアテナにお伝えします」

 では、と短い挨拶をして歩き出したムウだったが。

「そうそう、一つだけ」
「何だ? まだ何かあるのか?」
「ええ。仲が良いのはわかりますが、人の目があることも気にした方がいいと思いますよ」

 それだけ言うと先ほどと同じように颯爽と去っていく。それを二人は暫し呆然と眺めていて。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「お前いつからいたんだ?!」

 我に返った瞬間、同時にそう叫ぶと慌ててムウの後を追いかけていった。



 後日。つい先日、あれほど派手な大喧嘩をしていた二人は仲良く女神の目の前に膝をついていた。

「あの日以来、仲良くやっているようで安心しました」

 沙織は目の前にある同じ顔を見つめそう言うと微笑んだ。

「はい。諍いを起こすこともなくこうして共に暮らしております」

 つい先日の出来事が嘘のように晴れやかな顔のサガがそう告げると、隣りにいたカノンもほんの少しばかり表情を崩す。

「そして、カノン」
「はい」

 少し姿勢を正し返事をしたカノンに沙織は思いもかけない言葉を言った。

「トーストは、耳がカリカリの方がおいしいのよ」
「え……?」
「だから、あまりわがままを言ってサガを困らせてはいけませんよ」
「は、はあ……」

 おかしそうにくすくす笑う沙織とは逆に、カノンは耳まで真っ赤になり口をぱくぱくさせる。その隣りではサガが笑いたいのを堪えて肩を小さく震わせている。

「……何がおかしい」

 小声でも明らかに不機嫌な声でカノンがサガを小突くと、まるでそれが合図だったかのようにサガは大きく笑い声を立てた。
 それに触発されたのか、沙織も大きく開けた口を手で隠しながらおかしそうに笑い出す。

「本当にカノンってかわいらしいわがままを言うのね」
「な……。アテナ!」
「私もこんなかわいらしい弟が欲しいわ!」
「お、お待ちください!」

 十五歳も年下の少女の「かわいらしい」という一言に、相手がアテナとはいえさすがにカノンも抗議の声を上げる。
 それでも二人の笑い声は止まることはなく、カノンはいたたまれなくなって完全に下を向いてしまった。



「あんなに笑うことないだろう!」

 帰りの階段でカノンは猛然とサガに食ってかかった。しかし、それに対するサガの返事は笑い声だけで、カノンを軽く流して階段を降りていく。

「おや。やけに楽しそうだね」

 歩いているうちに双魚宮に着いたらしくアフロディーテが声をかける。二人揃って軽く挨拶を交わすと、彼も普段の穏やかな声で返事をした。

「ところで何がそんなに面白いんだい?」

 カノンはやけに不機嫌そうだけど、と付け加えてアフロディーテが問いかける。それにサガはまた笑い声を上げて。

「それが、アテナがカノンのわがままをかわいいとおっしゃってな……」
「ああ! 例のトーストのことか!」

 サガが全てを言い切らないうちにアフロディーテはぱん、と手を叩いて。

「聖域中で噂になっているね。『あのカノン様にもそんなかわいい一面があったんだな』って!」
「な……なんだって?!」
「何だ、お前知らなかったのか?」
「知らん! そんな話、俺は一言も聞いてない!」

 ようやく熱の治まった頬をまた真っ赤にさせてカノンが叫ぶと、目の前の二人が盛大に笑い声を上げる。そんな二人を見てこれ以上何を言っても無駄だと思ったカノンは頬を膨らませ、一人十二宮の階段を降りて行った。


 人の噂は七十五日。
 まだまだ、カノンの噂は消えそうにない。


THE END