[Raindrops]


「カノン。天気が悪くなってきたよ。早く帰ろう」

 先にそう言ったのはサガだった。
 いつも真っ青に晴れ渡った空が、今日は珍しく重いねずみ色の雲を広がらせている。
 それとどこか慣れないほこりっぽい香り。雨が近付いてきているのだ。

 しかし、虫を追いかけるのに夢中で、カノンはそのことに気付かない。

「カノン。早く帰ろうよ」

 サガは野原を駆け回っている弟にもう一度声をかける。
 しかし、彼はあっちへふらふら、こっちへふらふらと歩いては地面に突っ伏し、まるでサガの声など聞こえていないよう。
 その姿を見ているうちにだんだんと怒りがこみ上げてきたサガは、弟の後ろまでつかつかと歩み寄ると、その肩を強く引いて大きな声で叫んだ。

「カノン! 帰ろうって言ってるだろう!」

 いきなり耳元で大声で叫ばれぎょっとしたカノンが振り返った瞬間、緑色の小さな虫は、さっと草むらへと隠れてしまった。

「何だよ。……って、あー!」

 今度は視線を戻したカノンが叫ぶ番だった。
 先ほどまで確かに見えていたはずの生き物はいまや同じ色の草に紛れて見えなくなっており、それに気付いてしばし呆然としたカノンの表情が、サガの顔を見た瞬間、明らかに不機嫌と思われるものに変わっていく。

「サガのバカ! バッタが逃げちゃっただろう!」
「バッタ? そんなのいつでも捕まえてあげるよ。それより早く――」
「違う! 自分で捕まえたかったのに!」

 カノンはかれこれ半刻近くも追い回した獲物を逃してしまったのがよほど悔しかったのだろう、目にうっすら涙までためて、いかに自分の追いかけていた獲物が素晴らしいものだったか、どれだけ自分で捕まえたかったのか、それを邪魔したサガがどれほど憎らしいかを感情に任せてまくし立てた。
 思いつく限りの――彼らの母親が聞いたら間違いなく怒り出すような――言葉をサガに投げつけると、カノンはその小さな頬をはちきれんばかりに膨らませ、サガを上目遣いに睨む。

 それでも、それを受け止める兄の顔は涼やかなもの。
「それは残念だったね」 一言、そうカノンに返すとふいに空を見上げる。先 ほど空の端に見えていた雲はいまや、二人の頭上に重く垂れ込めていた。

「ほら、カノンのせいで雲が広がってきちゃったじゃないか」

 そう言われてサガにひと睨みされたカノンが言葉を返そうとしたその時だった。二人の間に落ちてきた雨粒が足元の草を揺らしたのは。

「あ」
「雨だ」

 先ほどまでのことを忘れてそう同時に言いながら空を見上げると、そんな二人に狙いを定めて、大粒の雨が空から降ってきた。
 大きな音を立ててそばの大木の葉を揺らしだしたその雨は、乾いた大地を潤すという仕事をさっさと終えてしまいたいかのように激しく降り出し、あっという間にサガとカノンを濡れねずみへと変えてしまう。

「だから早く帰ろうって言ったのに! カノンのせいだからね!」
「僕のせいじゃないよ!」

 言い合いをしながらそばの大木へと駆け込む。
 生い茂った枝葉が屋根となり二人を雨から守ってくれる。しかし、木の根元はひんやりと冷え込み、濡れた体からどんどん体温を奪っていく。
 どちらかともなくぶるっと身震いし、サガとカノンは顔を見合わせた。

「カノン、寒くない?」
「うん。サガも寒くない?」
「ちょっとだけ。うん、ちょっとだけ寒いかな……」

 サガが半そでから出た腕を軽くさする。その肌には鳥肌が立っていて、かなりその体が冷えていることを証明している。カノンとてそれは同じ。

「早く止まないかなあ」
「どうだろうね。三十分は降るだろうね」

 空一面を覆う分厚い雲は地平線まで続き、遊びに出た頃に見えたような青空はどこにも見えない。
 あと三十分、いや一時間近くは降り続くのではないか。そう思ったサガがふいに視線をカノンへと移した時、さっと閃光が走り二人の顔を照らし出した。
 はっと二人で息を飲む。その音と同時か、それとも早かったのか。地を揺るがすような轟音で雷が鳴り響いた。
 とたんにカノンの顔がさっと青ざめ、自然とサガに身を寄せてくる。サガはその肩と手をぎゅっと握るとまた次に来るであろう稲光を待った。

「サガ……」
「大丈夫。まだ遠いから」

 そうは言ってもいつまでもここにいるわけにはいかない。このまま近付いてくれば、二人が雨宿りをしているこの大木に雷が落ちる可能性が出てくる。

「家に、帰ろう」

 雨に濡れて家に帰るか、それともここで雷に怯えながら雨が上がるのを待つか。それを考えた末、サガは急いで家に帰ることを選んだのだ。
 決断するが早いか、サガは握ったままのカノンの手を引き、激しく雨の降りしきる野原へと駆け出した。

 二人を追いかけるように背後で稲光と轟音が繰り返される。
 徐々に短くなる光と音の間隔を気にしながらも、サガは一目散に家へと続く小道を駆け抜けた。もちろん、カノンの手をしっかりと握って。
 雷が鳴るたびに身をすくめて立ち止まりそうになりながらも、カノンも懸命にサガの後ろをついていく。
 雨に打たれて、肌に軽い痛みを感じていたがそんなことは気にしていられない。目の前にはもう家の明かりが近付いてきている。

 後数十メートル、というところでいきなり大きな音が聞こえた。それと同時に地面がわずかにぐらついたような感覚に襲われる。どこか、少し離れた場所に雷が落ちたのだ。
 その音にカノンが思わず足を止める。必死で走っていたサガも思わず後ろに引かれて立ち止まる。

「大丈夫だよ。ほら、家も見えてるだろう?」
「でも、雷が……」
「もう! それより早く家に入らないとカノンの上に落ちてきちゃうぞ!」

 急がせようと思って言った一言がいけなかったのか。最後の言葉を聞いた瞬間にカノンの顔が歪んで、その目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「……ごめんね」

 雨と涙でぐちゃぐちゃに濡れたカノンの頬をぬぐう。

「怖いこと言ってごめんね」

 カノンの頬をぬぐいながらそう謝ると、そのたびにカノンの目が瞬いて、新しい涙の粒がこぼれて雨と混じる。

「ごめんね。もう泣かないで」
「うん……」

 カノンは自分でも涙をぬぐいながら、何度もその言葉にうなずき返す。
 しだいにあふれていた涙も止まりだし、サガの顔を見たカノンの目はまだ真っ赤なままとは言え、ほんの十数分前に大木の元で見た目に戻っていた。

「さあ、帰ろう」

 雨が降りしきる中、ずっとそこに立ち尽くしていたせいだろうか、寒気がまた戻ってきてサガは小さく身震いをした。するとそれに答えるようにカノンも小さく身震いをする。

「このまんまだと風邪ひいちゃうね」
「でも、そしたらりんごジュース飲めるよ」

 風邪で熱を出すといつも母親が作ってくれるジュースのことを考えてカノンはにっこり笑った。
 それを見たサガは半ばあきれたようにため息をつくと、「お前はのんきだね」と小さく一言毒づく。もちろんそれはカノンには聞こえることなく。

「さあ。それじゃ家まで競争だ!」

 いまや目の前にせまった家の明かりを目指してサガがさっと駆け出した。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 慌ててカノンも追いかけるが先に走り出した上に、カノンよりも足の速いサガにかなうはずもない。
 それでもぬかるんだ道を走り抜けてサガの背中を目指すと、木戸の手前でくるりとサガが振り返った。

「ほら、早くおいでよ」

 足を止めて手を差し伸べると、やっと追いついたカノンがその手にすがりつく。

「もう、絶対追いつくわけないじゃないか!」
「だから待っててあげただろう?」

 しれっとそう言ったサガに無言の抗議をするも、カノンもぱっと笑顔を見せる。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 そう言って握った手を互いにもう一度強く握り返すと、ほぼ同時に口を開いて中にいる母親に帰ってきたことを告げる。

 中から答える母親の声と木戸が開かれると同時に、二人を包むふんわりと石鹸の香りがするバスタオル。
 それに包まれてサガとカノンはどちらからともなしに笑うとほっと小さくため息をついた。


THE END