[聖地の女神]
知った道を歩き続ける。十三年ぶりのことだ。この道は、かつてカノンが聖域にいた頃、週に何回と歩いてきた道だった。十二宮を通らず教皇宮へと向かうこの道の存在を知る者はこの聖域でもほとんどいない。というより、この道自体、人が認識する『道』というものに当てはまるかすら怪しいものなのだが、カノンにとっては慣れ親しんだ道であり、自分と聖域を繋ぐ唯一の道だった。
考えてみれば、よくあの小さな体でこの道を登れたものだ、と思う。崖の一部を蛇が這うようにのびるこの道は、確かに教皇宮への近道ではあるが、距離からしてみれば十二宮を登る以上のものがある。
周りを警戒しながらもそこを黙々と進み、ついに目の前に白大理石でできた神殿が現れた頃には三十分ほど経っていただろうか。ふとその風景に懐かしさを覚えた。十三年前と変わることのない、青い空と白い建物。あの頃、ここに来るのが楽しみで仕方がなかった。もちろん、それは顔を隠し、人の目を気にしながら進んだ末にたどり着いたものだったが、外界から隔絶された聖域のその中でさらに隔離された状態にあった彼からすれば、人のいる場所を訪れるだけでもそれは喜びになるのだった。
だが今はそれもない。あの頃、自分に接してくれた神官たちもいないということは風の噂で聞いていた。そして、何より自分に教育をほどこしてくれた男も死んでしまった。
ただ今あるのは緊張のみ。
「何者だ!」
ふと姿を現したカノンに、教皇宮を守っていた雑兵が声をかけた――がその顔はすぐさま驚きへと変わる。
「お、お前は……」
「俺の名はカノン。サガの――かつて黄金聖闘士であった双子座のサガの双子の弟だ」
告げられた名前を探るようにカノンを見つめていた雑兵は、その言葉を聞いてはっと我に返ったように姿勢を正すと「しばし待て」という言葉と共に中へと走り去ってしまった。方向から言ってアテナ神殿へと向かったのか。そう考えながら待つこと数分、先ほどの雑兵が戻ってきた。
「アテナが直々にお会いになる。中へ進め」
そう言って促そうとする雑兵にさっと手を振りカノンは返した。
「見知った場所だ。案内はいらん。それよりアテナはどこへ?」
「アテナ像の前にいらっしゃる。……貴様、よもやアテナに危害を加えるつもりではあるまいな?」
「だとしたら、こんなところで大人しく待っていると思うか?」
それだけ残してカノンは教皇宮の中へと踏み込む。石の建造物特有の冷えが充満した中には人の気配は感じられない。
扉をいくつも開け、たどりついた先に真っ赤なじゅうたんが玉座へと伸びる部屋があった。だが、自分の記憶の中では染み一つなかった美しいじゅうたんも、血の染みと床に大きく開いた穴のせいでぼろぼろになっていた。それを見れば、ここであった戦闘がいかに激しいものであったかがわかる。
そして、目の前にある玉座。ああ、あそこにかつて知った老人が座っていた。無論、そこに座っていた彼はカノンの知っている穏やかな笑みを浮かべたものではなかったが、誰もいない時にカノンが訪れれば、その仮面を外し微笑みかけてくれた。
そして何より、ここには兄が座っていた。兄は、サガは十三年間ここに座り、いったい何を見続けていたのか。ふとそれが気になり、玉座の前で扉の方へと振り返ってみる。だがカノンの目に映ったのは暗い広がりのみ。
「何だってこんな場所に」
そう悪態をつきながらも、自分もまた似たようなことを思い描き実行したのを思い出して、馬鹿かと呟き直す。それよりも、今はここで感慨にふけっている場合ではない。
玉座から離れ、後ろのカーテンをくぐる。まっすぐ上へと続く階段の先にいる相手を見据えるかのように目を上げると、カノンはその階段を昇り始めた。ところどころに落ちている血の染みは、なるほど先ほど垣間見えた戦闘の時についたものか。点々と続くその染みをまるで道しるべのように辿りながら最後の一段から足を離したその時、目の前に一人の少女の姿を認め、カノンはふと動きを止めた。
それに合わせるかのように、ずっと空を見上げていた少女が振り返る。それはほんの数ヶ月前に見た顔だったが、それ以上に慈愛に満ちた瞳をしていた。
思わずひざまずくことさえ忘れたカノンに、少女はそっと微笑みかけ、口を開く。
「ようこそ、カノン。よく『帰って』きてくれました――この聖域に」
穏やかな笑みを浮かべカノンを迎えたアテナは、海界で見た時と同じままそこにいた。まだ僅か十三だというこの少女は、その年齢にはあまりにも似つかわしくない慈愛に満ちた小宇宙をカノンへと向けたまま――しかし、その小宇宙は知らないものではなかった。十三年前のあの日、サガによってスニオン岬の岩牢へと閉じ込められ、幾度も生と死の間をさまよっていた時に必ずと言っていいほど、カノンを光のある方へと導いたものと寸分変わりない。
それを思い出したとたん、カノンはおのずと膝をつき、彼女へと頭を垂れた。
「一度、いや幾度となく貴女に助けられた恩を、少しでもお返しできればと思い……」
言葉を紡いだカノンに対してアテナは少し前へと進みよると、垂れたままのカノンの頭へとそっと手をかざす。
「心配は無用です……と言いたいところですが、今度の相手はハーデスです。今まで以上に苦しい戦いになることは目に見えて明らかです。あなた自身も命を落としてしまうことになるかもしれません。それでも――」
「無論、それを承知した上でのことです」
アテナの言葉をさえぎり、ふとカノンが顔を上げた。その目にはもはや何の迷いもなく、己の全てをこの地上の平和を守るために捧げるのだと無言の決意が見て取れる。もちろん、それにアテナは深く頷いた。
「カノン、あなたの助力に感謝しますよ。共に、この地上の平和のために、人々の未来のために戦いましょう」
アテナの小宇宙が柔らかな光となってカノンを包み込んだ。今この瞬間、カノンが犯した罪はアテナによって許されたのだ。