[祈り]


 いつもの静寂に包まれた教皇宮。
 大きなその扉がふいに開いて少年が一人入ってきた。

「お邪魔しま〜す……」
「おお、カノン。よう来たな。さ、こちらへ」

 笑顔で入ってきた少年に、正面の椅子に座っていた老人が微笑んで手招きをする。彼はこの聖域の統治者、教皇シオン。週に一度カノンを呼び寄せ、聖域などにまつわることを教えていた。



「――よってアテナは少年たちを不憫に思って聖衣を与えたのじゃ。ここまではわかるか?」
「…………」
「カノン!」
「――ッはい!!」
「そんなに外ばかり見て……。何かあるのか?」

 ひょいと窓の外を見たシオンだが、別に変わったことはない。

「あの……。ごめんなさい……」

 後ろでカノンの小さな声が聞こえる。振り返ったシオンは、頬を真っ赤に染めて俯くカノンの頭にそっと触れると、すうっと目を細めた。

「どうした? 何でも言うてみよ」
「あ、あの……」
「お前には不自由をさせている分、何かあれば聞いてやりたいのじゃ。さ、遠慮せず言うてみい」

 カノンは始めもじもじしていたがやがて蚊の鳴くような声で。

「晴れてるから、外に行きたいなって思ったの……」

 それだけ告げて完全に下を向いてしまった。
 普段、昼間ほとんど外に出られないカノンは今日のような晴れた日は外に出て走り回りたいのだろう。

 その願いを聞いたシオンは広げていた本やノートをさっさと片付けて。

「では、外で勉強するとしよう。それで構わんか?」

 シオンのその言葉にカノンは花が咲いたような笑みを浮かべる。そんなカノンの手を取るとシオンは聖域の側にある野原へと移動した。



「このお花は何て名前?」
「ねえ。これはなんて虫?」

 野原についたカノンは見るもの全てに興味を持ち、ひらひらと飛ぶ蝶を追いかけたりしては、見つけたものの名をシオンに尋ねる。その疑問に一つ一つ丁寧に答えてやりながら、シオンはただその無邪気な姿を見守っていた。

「……っうわ!」

 シオンがふと目を離した瞬間、カノンの叫び声が聞こえた。慌てて声のした方を見るとカノンが突っ伏したまま、じっとしている。駆け寄って抱き起こすと、石に躓いたらしく膝をすりむいている。ほとんど外にも出ないカノンにとってそれは思った以上の痛みで。

「シオンさま……」

 涙声で痛みを訴えるカノンをなだめると、シオンはその傷口にそっと手を触れる。すると、たちまち血は止まり、傷口が塞がっていった。カノンはと言えば、泣くのも忘れて目の前で起こったことに目を丸くしている。

「痛く、なくなっちゃった……」
「本来はしてはならんことじゃ。今回だけじゃぞ?」

 シオンはそう言ってカノンの額にそっと口付けるとその体を抱え上げた。その小さな体はシオンの膝の間にすっぽりと収まってしまう。それを両腕でそっと抱きしめ、シオンは静かにカノンの柔らかな髪に指を通した。
 しばらくそうしているとふいにカノンが口を開いた。

「ねえ、シオンさま。何で僕は皆と一緒に訓練しちゃいけないの?」

 それは彼にとっては当然沸き起こるはずの疑問。兄が外で聖闘士としての修行を受けているのに対し、自分はただ家にいて人目に触れないようすごし、こうしてたまに教皇宮へと裏道を使って出るだけの毎日。
 育ち盛りの子供にいいわけがない。そう思いながらも聖域の掟に従っている自分を嘲笑うとシオンはそっと腕に力を込めるとカノンを抱きしめた。

「お前は何故だと思う?」
「どう……? 僕よりお兄ちゃんの方が強いから?」

 その言葉にシオンははっと息を呑んだ。それは他ならぬ真実ではあるが、すなわちこの不遇を肯定するもの。決して、気付かせてはならないものだった、が。

「お兄ちゃんはね、ずっと僕のこと守ってくれるって言ってたよ」

 昔から兄に助けられてきたカノンは、誰よりも兄が強いと思っていた。
 頭がよくて力が強くて。何よりも優しい兄をカノンは自慢に思っていた。だから聖域につれてこられた時も、兄が聖闘士候補生となった時もただじっと黙って見ていた。それでも一年もすればここでの生活に疑問を持たないことは出来なくて。

「カノンはそう思うのか?」
「うん。……違うの?」
「いや、その通りじゃ。しかし、お前もいずれはサガのようになる日が来る」

 シオンはカノンの頭を撫でると笑ってそう言った。
 それは小さな嘘。この少年を少しでも守るための嘘だった。

 それを誤魔化すためだったのかもしれない。
 普段ほとんど笑うことのないこの男の笑顔は。

 しかし、カノンにはそれが知れることはなかった。

「ねえ、シオンさま。それはいつなの?」

 無邪気に聞き返す幼子の鼻先にそっと指を押し当てると。

「いつ……? そうじゃな、お前が十になったら始めるとするか」
「十歳? あと、え〜と……」
「十から七を引くと後はいくつじゃ?」

 そう聞かれてカノンは小さな手を広げて計算をしだす。数えながら指を七本おったところでにっこり笑って。

「三だ! あと三年だね!」
「そうじゃ。良く出来たな」
「すごい? すごい?」
「ああ。カノンは賢い子じゃな」

 その喜んだ顔を見て、カノンの体を強く抱きしめると嬉しそうに笑った。
 しかし、その顔がふと変わり、カノンが不思議そうに見つめてきて、小さな掌でシオンの頬を包むとその額にキスをした。

「……カノン?」
「あのね、僕が元気がない時ね、お兄ちゃんがいつもこうやってくれるの」
「―――!」
「シオンさま、何だか元気がなさそうだったから」
「そうか……。ありがとう」

 交差する思いが顔に出てしまったのか。それを察知したカノンが差し伸べてくれた手はあまりにも温かくて。

「どうしたの? シオンさま、どっか痛いの?」

 そう言われて自分の頬が濡れているのに気付く。

「ねえ。なんで泣いてるの?」

「大丈夫。何でもない……」
「本当?」
「ああ。本当じゃ」

 シオンの頭をなでていたカノンをその腕に閉じ込める。
 こうしているだけで、その気持ちが溢れてきて、くすぐったそうに笑うカノンをさらに強く抱きしめるとシオンはただ神に祈った。


 女神よ。願わくばこの子に人の幸せを。

 与えられたこの生を
 正義とはいえ人を殺めるためでなく
 平和の中で人を愛するために費やせるものであれ――。


THE END