[Happy, Happy!]-02-
「ついてないよなあ」
目の前に広がるオレンジ畑を見ながらアイオロスは小さく呟いた。
星空に向かい実をつけたオレンジの木が腕を伸ばす中、乾いた土の上に腰を下ろしため息をつく。
「ったく、どこにいるんだよォ」
まずはその聖闘士とおぼしき人間を探さなければ、と町中聞きまわっても誰もが首を振った。実際の現場を見た人間は一人もおらず、地元警察でさえもさじを投げている。しかもあろうことか嫌味まで言われる始末。
「なーにが『こんな所までお越しくださってご苦労なことですね』だ。だったら自分たちで何とかしろよ」
「まったく、と言いたいところだが聖域の不祥事だ。我々の手で探し出さねばなるまい」
突然後ろから聞こえた声にアイオロスがぎょっとして振り返ると、そこには見慣れた友人の姿があった。
「サガ! 何しにきたんだ?」
「お前の代わりに調査とやらに、な」
「だってこれは俺の仕事だぞ?第一こんなことで黄金聖闘士が二人も――」
「教皇の勅令だ。お前の代わりに私がこの調査を引き受けることになった」
「つまり俺は帰れってことか?」
「そういうことになるな」
アイオロスが納得のいかない顔をするとサガは少し顔を崩して。
「教皇が後悔で塞ぎこまないうちにさっさと聖域へ帰るんだな」
「帰るったって……。おい、今回の仕事はすぐには終わらないぞ?」
「なぜそう言い切れる?」
「手がかりが全然掴めないんだ」
そう言って肩を落としたアイオロスの頭の上で、サガの押し殺したような笑い声が響いた。
「どうせお前のことだ。そこら辺の家々でも回って聞いてみたんだろう?」
「だったらどうなんだよ」
「ピレモンのところには行ったのか?」
「誰だ、それ?」
いきなり知らない名前を聞かれ、尋ね返すとサガはほら見たことかと言った顔でため息を一つついた。呆れているのは言われなくてもわかる。
「それじゃあ何も知らないのも無理はないな」
そう言うとマントをひるがえし、どんどん町へと向かい歩き出す。
「おい、待てよ! ピレモンって誰だよ!」
さっさと離れていくサガの背中に向かってそう精一杯叫ぶと、闇へと姿が消える寸前答えが返ってきた。
「五年前まで聖域で神官をしていた男だよ!」
「おお、アイオロスよ。よく帰ってきてくれた!」
聖域へ帰ってきたアイオロスを出迎えたのは、先ほど出て行く時とは別人のように顔をほころばせた教皇シオンの姿だった。
「教皇。なぜサガを……」
やはり少し悔しいのだろうか。そう吐き出したアイオロスにシオンはそっと手をかざすと首を振って、彼の考えとは違うことを告げる。
「お前にはここにいてもらわねばならん理由がある」
「俺に?」
「そうだ。アイオリアもこの日を楽しみにしておったしな。それにカノンも」
最後に付け加えられた名前を聞いて、アイオロスがぴくりと反応する。
「なぜ、カノンが?」
思い当たることがないだけに、首をかしげて教皇の次の言葉を待つアイオロスをシオンはたしなめると、膝をついているアイオロスへと視線を合わせて微笑んだ。
「それは行けばわかること。ああ、アイオリアはもう眠っているだろうから、明日会ってやるとよい」
「しかし――」
「さっさといかんか」
用件を言えば後はさっさと追い払うのはいつものこと。それにアイオロスはむくれながらも教皇宮を後にした。
冷たく、どこまでも続くような階段を降り、ようやく白羊宮を抜けると、アイオロスは先ほど戻ってきた時と逆の道をたどり、聖域のはずれにある小さな小屋を目指して一目散に駆け出す。やがてぼんやりとした明かりが目前に迫り、アイオロスは息を整えようと歩き出すと扉の前で何度か深呼吸をする。
どうして、未だにこんなに緊張するのだろうか。
今まで何度も、いや何十度も足を運んだ場所なのに。
彼が、一人でこの中にいると思うと自分でも不思議なほど緊張する。
「カノン。いるのかい?」
わかりきったことを聞きながらドアをノックすると、小さな返事が聞こえてやがてドアが開け放たれる。
「アイオロス!」
親友よりいささか幼い笑顔で迎えてくれた彼にアイオロスはほっとため息をつく。
「やあ、カノン。こんばんわ」
「うん。でもどうしたの?」
にこにこと笑ったままそう聞かれてアイオロスは目を丸くした。
「あれ? 教皇がここに行けって言ったんだけど……」
「シオン様が? 何でだろうね?」
「さあ……。何でなんだろう」
予想だにしてなかったことに面食らいながらもカノンの勧めで部屋の中へと入る。
こじんまりした部屋の中にある小さな食卓。そこに腰掛けてアイオロスはコーヒーを淹れるカノンの後姿をぼっと眺めた。
部屋の中は質素とはいえ、決して貧乏くさいものではなく、そこにカノンの兄がいかに弟に気を払っているのかが伺えた。
「お砂糖は二つでミルクはいっぱいだよね?」
振り向きざまにそう聞いてきたカノンに無言でうなづく。
少し頬が熱いのは、きっと走ってきたからだけではないのだろう。
「どうかした?」
ふいに覗き込んできたカノンに慌てて首を振る。
ただ無言のまま首を横に振るアイオロスを見てカノンはくすくすと笑いを漏らす。
「なんだか、今日のアイオロスは大人しいね」
それは君のせいだ、と言おうとしたがそれを喉の奥へと押し込む。サガがいれば何もなく言葉も出てくるのだが、カノンと二人きりだと思うとそれだけで緊張して言葉が出てこない。
こんな時に限って彼がいないなんて!
頭を抱えたくなってしまう現実にアイオロスが下を向いたままでいると、壁にかかった時計が時間を告げた。何時だろうと顔を上げてみると時計の針はちょうど十二時。新しい一日が始まったところだった。
「ごめん。こんな遅くに――。全然時計を見てなかったもんだから」
やってきて初めてちゃんと話せた言葉はそれだけ。
カノンもこころなしか眠たそうにしているように見える。
「そろそろ帰るね」
来たばかりだけどしょうがない。それでも会えただけ――そう思って席を立とうとすると、ふいにカノンがアイオロスの腕を掴んだ。
「もう帰っちゃうの?」
そう言ってきたカノンの目はどこか寂しそうで。思わずその目を見たまますとんと座りなおすと、それを見たカノンが嬉しそうに笑ってこう言った。
「アイオロス、誕生日おめでとう」
瞬間その意味がわからずにぽかんとしていると、カノンの顔がまた少し曇って。
「でも、ごめんね。プレゼントはまだ渡せないの。お兄ちゃんと一緒に渡そうって約束したから……」
「いや、いいんだ!」
アイオロスは慌ててその言葉をさえぎった。頭の中でカレンダーをめくってようやく気付いたのだ。今日が他でもない、自分の誕生日なのだと。
「俺は……。俺はカノンが祝ってくれるだけで嬉しいよ」
照れながらそう伝えると、まるで満開の花のようにカノンがふんわりと笑った。
「コーヒー、淹れなおしてくるね」
空になったマグカップを持ってカノンがキッチンへ消える。その後ろ姿を見ながら、アイオロスはもう一度時計へと目をやった。時計の針は十二時を僅かに回り、静かな室内にはカノンが淹れるコーヒーが立てる香ばしさを伝える音、そして秒針が静かに一秒ずつ刻んでいく規則正しい音だけが響く。
『誕生日おめでとう』
言われたばかりの言葉を思い出すと自然と顔がほころんでくる。
何度も頭の中で繰り返すと、そのたびに喜びが溢れてきてどんどん自制がきかなくなる。
誕生日になって初めての祝いの言葉を、カノンの口から聞くことができたのだ。
自分が一番大好きな、カノンの口から。
それだけで天にも昇る気持ちになったアイオロスは、カノンが戻ってきたことにも気付かず。
「はい、コーヒー」
目の前に差し出されたマグカップを見てはっと我に返る。
「あ、ありがとう」
「ううん。どういたしまして」
いすを運んできてアイオロスの横にカノンが腰を下ろすと、ふわりと石鹸のいい香りが鼻腔をくすぐる。
「ねえアイオロス。お願いがあるんだけど」
「なんだい?」
お願い、と言われただけで背筋を伸ばしてしまう。アイオロスが緊張の面持ちでカノンの顔を見ると、カノンは少しアイオロスを見上げるようにして手を組んだ。
「あのね。今夜、帰らないでほしいの」
今度こそアイオロスは驚きで言葉を失うことになった。
好きな子が一晩中一緒にいたいと言うのだ。それにやましい思いはないとしてもやはり嬉しいもの。しかし、だからこそいいのだろうかと疑問に思うこともある。
「でもサガが――」
そこまで言ってアイオロスは言葉を切った。サガはアイオロスの代わりに物騒な任務についているのだ。
カノンは、よほどのことがない限り、毎晩サガと一緒に寝ている。しかし今夜はサガがいないのだ。
サガが毎晩、ここへ来て少しでも長い時間カノンと一緒にいようとしていることは知っている。それはもちろん、寂しがりやのカノンをなるべく一人にしないためだ。
「ねえ。ダメかなあ?」
もう一度そう聞いてきたカノンの声を聞いて、アイオロスは首を横に振る。
「いいよ。俺でよかったらいくらでも!」
いささか声高にそう叫ぶと、カノンが嬉しそうに手を叩いた。
「本当に?じゃあ、サガの枕持ってくるね!」
足音も軽やかに寝室へと入っていくカノンの後ろ姿を見つめるアイオロスの頬は心なしか、ほてりが戻ってきていた。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
二人でシーツに包まって向かい合うと、わずか数センチの場所にカノンの顔が見える。高鳴る鼓動を隠そうとアイオロスが身じろぎをすると、ふいにカノンが呟いた。
「ごめんね、アイオロス」
「え? 何が?」
「だってアイオロスの誕生日なのに、僕のお願い聞いてもらっちゃって。僕ね、お兄ちゃんといつも一緒に寝てるから、一人で寝るのって慣れてなくて……。ちゃんと練習しなきゃダメなんだけど」
驚いて聞き返したアイオロスにカノンは恥ずかしそうにそう言って笑うと、軽く目を閉じた。
「ありがとう」
「ううん。どういたしまして」
そう言ってカノンの髪をそっとなでると、カノンはくすぐったそうに目を開く。
「今度こそ。おやすみ、アイオロス」
「うん。おやすみ、カノン」
目の前で大きな瞳が閉じられると、長いまつ毛が濃い影を落とす。サガとは似て非なる顔。訓練生の頃、サガと二人で眠ったことは一度ではないが、別にドキドキするでもなく普通に顔を合わせてそのまま眠ったのだ。
それが、今は違う。目の前にある寝顔は、アイオロスの気持ちを引き出すには十分すぎるほど。
軽い寝息を立てだしたカノンの顔を見ていると、先ほどまで少しあった眠気が消えてしまう。ただ、その顔を見ているだけで緊張して、ますます目が冴えてきてしまう。
一度目を閉じて開くと、目の前にあるのは紛れもないカノンの顔。顔をかなり近づけているせいか、寝息がそっと唇をくすぐる。いや、それは自分が顔を近づけたせいか。
そっとその唇に触れると柔らかな感触が重ねた自分の唇から伝わってくる。
数秒間重ねただけで離しはしたものの、いつまでもその感触は残ったまま。
――俺、何やってるんだろう。
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、アイオロスはそっと目を閉じる。それきり目は開けず、寝ることだけに専念して、逃げていった眠気を必死で呼び戻そうとする。
やがて、時計が一時を告げる頃、アイオロスもまた静かに眠りについた。隣りで感じる小さな寝息に自分の寝息を重ねながら――。
THE END