[さらば、友よ]


 ――記憶が、蘇っていく。
 あの頃の、彼の笑顔と共に。





「明日、旅立つと聞いたが」
「ああ。傷もかなり癒えたし、一日も早くあの場所に行かねばならん」
「そうだな。アテナもそれを一番望んでおられるはずだ」

 あの尊い女――否、人の姿を借りた女神――はこちらに戻ってきた後、我らに全てを任せて逝った。
 わかっていた。すでに長くは生きられないことを。――我々も、彼女自身も。

「強い、お方だった」

 彼女のことを言っているのはすぐにわかった。

「そうだな。強くて……何よりも自分の運命に従順だった」
「我らでさえ抗おうとしたのにな」
「私もお前も腰抜けだった。この戦いを迎えるまでは、な」

 そこまで言った時、重いドアを叩く音がした。「入れ」と一言告げると入ってきた雑兵は、無言のままテーブルにティーカップを二つ置いて立ち去る。

「一人でも、生きている人間を見るとほっとするな」

 童虎がそうポツリと呟いた。

 嗚呼、そうだ。そうだとも。
 あの屍が累々と積まれた『地獄』から戻ってきた時、この聖域を守っていた雑兵を見て涙がこぼれた。

 私は、生きて地上に戻ってきたのだ、と。

「お前がいなくなると寂しくなるな」
「何を言う。お前はこれから多くの聖闘士に囲まれていくではないか」

 それに比べて儂は、と言いかけてカップを口に運ぶ。

「つまらんことを言った」
「構わん。事実だ」

 それだけ言うとまた互いに口をつぐむ。
 石の冷たさが足元から忍び寄ってくる中、新しく私の住居となった教皇宮にはまた静寂が訪れた。



「そろそろ戻るか」

 独り言のように言った童虎に視線を合わせる。それを知ってか知らずか、彼は大きく伸びをすると席を立つ。

「シオン。そんな顔をするな」
「……私は今、どんな顔をしている?」

 まぶたが震えているのがわかる。きっと、彼が見た中でも5本の指に入るほど情けない顔をしているんだろう。

 泣いてしまわないだろうか。

 そんな惰弱な考えがふと頭を過ぎり、慌てて否定する。
 私は黄金聖闘士だ。そしてこれからこの地を治めていく教皇だ。それが、友との別れなどで―ましてや今生の別れでもないのに涙を見せてしまうなど。

「泣き出しかけの子供のような顔をしているぞ」
「馬鹿な。この私が泣くなど」

 見透かされたような気がして、言葉でもって否定する。先ほど自分に言い聞かせた言葉をもう一度頭の中で繰り返しながら。

 童虎はしばらくこちらを見ていたがやがてきびすを返した。

「明日の、何時ごろ発つのだ」
「なるべく早い方がいい。そうでなくとも時間を食ってしまったからな」
「気をつけて……と、これは明日言うとしようか」
「それなのだが――。いや、お前の意思に任せるとしよう」

 瞬間、彼の言いかけたことがわかったが言葉を飲み込んだ。私の意思に任せてくれるのなら、そうしようと。

「それではまた明日」
「ああ。おやすみ」

 短い挨拶を交わすと、ドアを押し開け彼が通り過ぎるのをただ待った。私より幾分低い彼の頭が目の前を通り過ぎ、その後姿が見えなくなるまで見送ると静かにその扉を閉める。

 明日の朝が、来なければいいのに。

 そんな叶うはずのない望みを、胸に抱きながら。





「昨日言おうと思っていたのだが」

 大きな荷物を背負った童虎が思い出したかのように、唐突にそう言った。

「本当は、今日の見送りは構わんと言いたかったのだ」
「そうだろうな。こんなひどい顔で見送られては後味も悪いだろうに」
「別にそういう意味ではないが……。確かにひどい顔をしているな」

 そう言って自分の目の下をそっとなぞる。

 昨日、あれから床に就いたものの一睡もできることなく朝を迎えた。一晩中、この目の前に立つ男のことを考え、唖然とするほどに弱々しい自分を叱咤した。おかげで目は腫れ、まぶたは重く、目の下は充血してくっきりとくまができていた。

「まったく、教皇になって間もないというのに徹夜で仕事か?」
「ふん。お前とて、知らぬ地にいくことへの緊張か少し顔色が悪いぞ」

 憎まれ口を叩きながら己の本心を隠そうと必死になっている自分に気付く。この気持ちは、この気持ちだけは知られないようにと。
しかしこの男には敵わなかった。見事にこの私の考えを打ち壊してくれるとは。

「お前とこうして軽い言葉も交わせなくなるとは……。寂しいものだな」

 それは昨日、私が言った言葉だろう。
 そう心の中で毒づいていると、彼が思いもよらない行動を取った。

「本当に、寂しくなる……」

 そう繰り返し、ふいに目を伏せた。そして、なんということだろうか! その閉じられた目の間から、涙を一筋こぼしたのだ!

 まさか、この男が涙を流すなど!
 聖闘士の鑑と言われたこの男が、旅立ちの際に涙を見せるなど!

「童虎……。一体どうしたと……」
「お前は、呆れるだろうな……」
「な、何を……」
「友との別れで涙するなど、お前は……」

 彼はただしゃくりあげ、子供のように泣いた。声をあげまいと必死に唇をかみ締めて泣いた。
 私の理性を留めていた最後の糸の切れる音がした。

「馬鹿者!私をそのような男だと…!」

 それ以上は言葉にならなかった。私は声を上げて――彼の数倍は盛大に――その場に座り込んで涙を流した。

 友との別れが寂しくない者などいるものか!
 ましてやそれは、互いに命をかけて戦い、生死の境を共に彷徨った今生最高の友であるのに!

「だから寂しくなると、昨日言っただろうが!」
「わかっておる! 儂もそう思っていたからこそ、見送りを断ろうとしたのではないか!」
「最後の最後に見送るなというのか、この薄情者!」
「薄情者とはなんじゃ! お前の好きにしろと言っただろうが!」

 喧嘩をするような騒がしさで言い合いながら彼の顔を見ると、涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔が目に映り、こんな状況にも拘らず噴出してしまった。

「童虎よ! とてつもなく無様な顔だな!」
「お前こそ、鼻水まで垂らしおってからに!」
「それはお前も同じだろうが!」

 泣きながら互いに大笑いをする。笑い声はどこにも響かずただ上空へと吸い込まれていく。二人揃って声が枯れるまでそう笑って、少しずつその笑い声も消えていった。

 ふいに童虎の顔が近付き、頭の後ろに過ぎていくと共に肩に重みがかかり、その腕で体が抱きしめられた。自分自身も無意識のうちに彼の体に腕を回し、力の限りに抱きしめた。
 彼の肩に顔を乗せると、真っ青な空と茶色の大地と、朽ち果てた白い瓦礫が見えた。

「シオンよ」
「何だ?」
「お前は、最高の友だ」
「私もそう思っている」
「まあ待て。それ以上に…」

 ふと首を動かしその先に続く言葉を待ったが、いくら待っても聞こえてこない。

「童虎?」

 そう呼びかけると、ふいに彼の指が髪に触れた。あの見慣れた、そして触れ慣れた、ごつごつとしたその太い指で幾度か私の髪をすくとふいに動きを止めた。

「……やはり止めた」
「何だ? 途中で止めるなど男らしくない」

 そう返してはみても、私の顔は確かに緩んでいた。

「お前の言いたいことはわかっているぞ?」
「……ならば、聞かせてもらおうか」
「そうだな――。今度会う時まで黙っていることにしよう」

 意地の悪い声でそう言うと、背中で童虎が笑いをかみ殺しているのがわかった。

「なんとも……。お前らしい」
「そうだろう? 私が一筋縄ではいかん男だとお前も知ってるはずだ」
「ああ、そうだった。そうやってお前はいつも大事なことを隠してはわからん儂をからかってばかりだ」

 だが、と一度言葉を切ってから彼はまた口を開く。

「今回は違うぞ」
「ほう。ではその考えを聞いてみようか?」
「馬鹿者。先ほど言いかけて止めたことをおいそれと言えるものか」
「……お前も相当底意地の悪い男だな」
「お前にだけは言われたくないわ」

 憎たらしいことを言って肩を小さく震わせる。それが自分の体へと伝わってきて、私も小さく笑った。

「なあ、童虎。次の聖戦が終わったらどうする?」
「何だ? もう二百年も先のことを言っているのか?」
「どうせその頃まで私もお前も生き続けなければならんだろうが」
「確かにそうだが……。そうだな、二人で隠居でもせんか?」
「この聖域でか?」
「いや、遠い東の地……。儂がこれから赴く五老峰でだ」
「あんな田舎で隠居か。まあそれも悪くはない」
「お前の育ったチベットよりはずっとましな生活が送れると思うんだが」
「よくも言ってくれたな!」

 ふいに体を離し、不機嫌そうな顔をすると童虎は少し笑って。

「それまで、絶対に死ぬんではないぞ」
「お前も、必ず生き抜いてみせろ」

 立ち上がると膝の土を払い、手を差し出す。彼も手を差し出し、堅く握手を交わすとどちらからともなく手を離す。

「では、今度こそ……。さらば友よ」
「さらばだ。互いにどこにいようとも――」
「我らの心は一つ、だったな」

 聖戦前に交わした言葉をまた交わすと今度こそ、と背を向けた。童虎が歩みだす音が聞こえると同時に私も聖域へと足を進めだす。

 互いに振り返ることなく、別の道を歩き出す。
 遠い未来、またこの道が一つになることを願いながら。





 ――すまない。

 そう喉を震わせたが己の声すら耳には届かなかった。それでも何度も同じ言葉を繰り返す。

 ――すまない。本当にすまない。お前と約束したことを守れなかった私を許してくれ。

 口から溢れ出す血を感じながら、ただそう繰り返す。

 ――お前と再び会うこともなく、この世を去っていく私を許してくれ。

 もはや痛みすら感じなくなった体の先から、少しずつ何かが這い上がってくる感じがする。これが死というものか。これが本当の最期というものなのか。そう考えても不思議と恐怖は起こらず、それの代わりに胸を占めるのはただ残念だと思う気持ち。

 そしてふいに頭をもたげる別の問題。
 あの男は、私が危惧していた通りの男だ。いつか、特にあの弟がいなくなってからはいつ現れてもおかしくないということはわかっていた。それでも私は、あの男の出現を止めることはできなかった。

 許してくれ、サガよ。
 お前があれほど懇願したにも拘わらず、半身を引き裂き、お前を絶望の淵に追い込んだのは私だ。

 これは、私の愚行に対する然るべき罰なのかもしれない。



 先ほどから這い上がってきていたものは、すでに私の顔まで覆ってしまったらしい。もう、何も見えず何も聞こえない。

 それなのに私にははっきりと思い浮かべることができる。二百数十年前のあの日、友が見せたあの笑顔を。



 これから先、何百年であろうとも待ち続けよう。
 いつか、来世でも何でもいいから待ち続けよう。

 再び、あの笑顔に会える日を。


 だから、どうかそれまでは。
 友よ、変わることなく健やかなままで。


THE END