[予感]


「ヒマだなぁ〜」

 草の上にその身を押し付けてカノンはぽつりと呟いた。
 聖域から少し離れた山の中腹。ここに来て居眠りするのがカノンの日課だった。

「う〜ん。……ヒマだ」
「そんなに暇なのか」

 急に現れた人影にカノンは一瞬驚きで言葉を失う。そこには銀の髪をなびかせて佇む男が一人。

「……おっさん誰だ?」
「お前こそ誰だ、クソガキ」

 お互いにムッとした表情をする。しばしの睨み合いの後、沈黙を破ったのは男の方で。

「こんなクソガキ相手に怒るのも情けないな……」
「クソガキじゃねーよ! 俺にはカノンって立派な名前があるんだ!」

 相手の言葉にすぐに食ってかかったカノンはつい名乗ってしまった。それに口の端にうっすら笑いを浮かべると男は、カノンの横に腰掛けその口を開いた。

「立派な名前かどうかは知らんが、覚えておいてやろう。俺の名前はタナトス。死を司る神だ」
「神ィ!? おっさん何言ってんだよ。頭おかしいのか?」
「そんなに信じられんか? ならば見てみろ」

 タナトスはすっと指を伸ばすと空を飛んでいた鳥を見つめる。その瞬間。緩やかに空を舞っていたソレは魂を抜かれたように地に落ちた。

「――――!」
「これでわかったか?」

 唖然と落ちてきたソレを見つめるカノンの顔を覗き込んで、タナトスは口の端を吊り上げると、喉をならして低く笑った。

「……おっさん、俺のこと殺しにきたのか?」

 ようやく目の前のことを理解したカノンが口を開く。

「どうだと思う?」

 こいつは明らかに自分の反応を楽しんでいる。そうわかっていてもやはり不安は拭えず、搾り出すように小さな声で何とか抵抗を試みる。

「俺は、死なない……」
「ほう。その自信はどこから来るのだ?」
「俺には兄さんがいるからだッ!」

 頬を興奮で真っ赤にさせてタナトスの目を睨み返す。すると彼は高らかに笑い出して。

「なんだ、お前の兄はそんなに強いのか?」
「あったりまえだ! なんたってアテナの聖闘士、しかも黄金聖闘士だぞ!」
「何? アテナの聖闘士……!?」

 アテナの名を聞いた瞬間、タナトスの顔色が変わる。しかし、訝しげに見てきたカノンの視線に気付き、顔を元に戻して。

「……何考えてるんだ?」
「いや。ところで、お前はいくつだ?」
「俺? 十四だけど」
「十四か、あと十年はあるな」
「十年? 何がだ?」

 しかしタナトスはそれには答えず。

「十年はある。その間に兄弟の絆を深めておくんだな」
「は?」
「兄弟には他人とは違う何かがある。それを得ておけということだ」

 俺と兄のように、そう付け加えて。しかし、カノンには何のことかさっぱりで。

「何言ってんだよ、おっさん」
「……お前、頭が悪いのか?」
「うるせぇ! ほっとけ!」

 痛い所を突かれて赤面するカノンをタナトスは適当にあしらう。そして、ふっと空を見上げると。

「それはそうと、お前は訓練に戻らなくて良いのか?」
「訓練? そんなもんねーよ」

 ぶっきらぼうに答えたカノンに、タナトスの目が少し見開かれる。

「アテナの聖闘士はその体を呈して聖闘士になると聞いたが。兄が黄金聖闘士であるところをみると、お前も聖闘士ではないのか?」
「違う。俺は聖域にいるだけで別に聖闘士じゃない……」

 その顔にうっすら陰がさしたのをみてタナトスは口をつぐんだ。何か理由があるのだろうが、そんな顔を見ては少し好奇心も殺がれる。

「まあ、よい」
「おう。そっとしといてくれ」
「ああ」

 沈黙が流れる中、静かにカノンが言葉を零した。

「なんか、不思議だな」
「何がだ?」

 眉を顰めたタナトスに軽く笑いかけるとカノンはそっと囁くように言った。

「こんなこと他人に話したの初めてだ」
「奇遇だな。俺もこんな話をしたのはお前が初めてだ」

「そんな話をする柄ではないがな」と付け足し、タナトスは低い声で笑った。

「やっぱり、お前神なのかもな」
「かもではない。神だ」

 すかさず否定したタナトスに軽い笑いを漏らして。それにタナトスも口の端を少し吊り上げて。

「せいぜいその悪い頭でさっきの意味を考えておくんだな」
「……いちいち、頭悪いって言うな」

 カノンが頬を膨らませてタナトスの方を見た、その時。

「カノ―――ン!」

 聞きなれた声を捕らえてカノンが振り向く。つられてタナトスも振り向いて、一瞬その目を丸くする。

「お前たち、双子だったのか……」
「あ? そうだけど?」
「そうか。それでか」
「一人で納得して気味悪ィぞ」

 カノンのその声にタナトスは笑うと。

「俺と兄も双子なんだよ」
「――そうなのか?」
「ああ」

 思わずカノンが身を乗り出したその時。

「カノン! お前は私との約束も守れんのか!」

 走ってきたカノンの兄は怒号と共にカノンの頭を叩く。

「いってーな! 何しやがんだ、このバカ!」
「バカはお前だ! 三時から稽古をつけてやると言っただろう!」
「うるせー! いらねぇつっただろ!」
「何だと……!?」

 そう言って彼はカノンの頭をもう一発殴ろうとした。その時になってやっとカノンの隣に座る人物に気付く。

「カノン、こちらの方は?」
「ああ、こいつは――」
「たまたまここで鉢合わせただけだ」

 カノンが言おうとしたそれを遮ってタナトスが答える。それを聞いた兄はふかぶかと頭を下げて。

「弟が迷惑をおかけしたようで申し訳ない。私はカノンの兄のサガと申します」
「バカ! 俺はなんも迷惑かけてないぞ!」
「うるさい! お前が人と関わるといったら迷惑をかける以外に何がある!」

 そう言ってカノンの首根っこを掴むと、サガはもう一度タナトスの方に向き直り、すっと頭を下げて、その身に纏う輝く聖衣にも劣らぬほどの輝かしい笑みを浮かべると、颯爽と立ち去っていった。

「おっさ―――ん、またな―――」

 引きずられながら手を振るカノンに、苦笑しながらもタナトスは軽く手を上げて。

「また会えたら、な」

 やがて肩を並べて歩いていった二人を見ながらそう呟いた。





「何だタナトス。こんなところにいたのか」
「ヒュプノス」

 急に現れた兄に呼びかけると、自分の隣をあごで指して。

「何かよいことでもあったのか?」
「なぜだ?」
「顔が笑っているぞ」
「そうか。まあ、楽しかったことは確かだ」

 そう笑って答えるタナトスにヒュプノスも笑って、弟の肩を叩くと立ち上がる。

「さあ、冥界に帰ろう。こんなところでアテナの聖闘士にでも鉢合わせたらやっかいだ」
「アテナの聖闘士か……。それならさっき会ったぞ?」
「……何?」

 顔色を変えてヒュプノスが屈みこむ。

「タナトス、それはどういうことだ?」
「先ほどまでな、ここで話をしていた者の兄がそうだったのだ」
「なんと。何も起こらなかったのか?」
「ああ。あっちにはわかってはいまい」
「そうか。それならよかった」

 ほっと息をつくヒュプノスを促して立ち上がる。そして、二人は肩を並べるとその風景に溶けていった。

「また、会えることを楽しみにしているぞ。黄金聖闘士のサガ、そしてカノンよ……」

 そう言い残して。





 その日の晩。二人で夕食をとっている時にふいにサガが口を開いた。

「そういえば、カノン。あの男の名を聞いた時、何か言いかけてなかったか?」
「ああ。あいつ、死神のタナトスっていうらしいぜ」
「な、何!? なぜそれを早く言わんのだ!」

 そう言うとサガは食べかけのパンをほったらかして黄金聖衣を纏う。

「ちょ……! どこ行くんだよ?」
「教皇への謁見に行くに決まってるだろう!」
「へ? 何で?」
「お前……。もしかして知らんのか!?」

 ぽかんとしてカノンを見つめるサガにカノンは睨みを効かして。

「悪いが俺は聖域の機密事項には疎いもんでな」

 少し頬を膨らませてカノンはそう答えたが、返ってきたのはサガの怒声。

「何をふざけている! ヤツは冥界軍の神だぞ! いわば、兄のヒュプノスと共に冥界のNo.2だ!」
「マ、マジかよ!?」
「本当だ! とりあえず今から行ってくる!」

 ビックリするカノンをほったらかして、サガは慌てて家から出て行った。

「おっさん、そんなにすごいヤツだったんだ……」

 スプーンを持ったままぽつりと呟くと、カノンは暫くの間、サガの出ていった扉を見つめる。

「また会おう、か。それまでは――」

 タナトスが言っていたことをふいに思い出すと、カノンは静かにスープを一口、口に運んだ。


THE END