[Person Unknown]-01-
その日は私にとって特別な日だった。もちろん、カノンにとってもそうだと信じていた。
それだと言うのに前日になってから「帰ってくるのは遅くなる」だと? これほど心待ちにしていた私を放ってどこへ行くつもりだと問い詰めれば、しれっとした顔で「海底に行ってくる」などと言う。
「ふざけるな!」
気付けばそう叫んで私は部屋を飛び出していた。扉を閉める瞬間、驚きのあまりぽかんと口を開けたままのカノンの姿が目に入ったが、そんなことはもうどうでもいい。それよりもはらわたが煮えくり返るような怒りと、気を抜けば一気に倒れこんでしまいそうな脱力感と、それからこれは――ああ、失望感だ。どうしてあいつはそんなに大事なことを前日まで私に言わなかったのか。私が切り出さなければ言わないまま行くつもりだったのか。それほど私は信用ならんのか、と殴ってやりたくなるのを必死で抑え、十二宮の階段を上まで昇っていく。自室を飛び出した以上、行く先はここしかなかった。
だが、いざ階段を昇りつめ、教皇宮を目の前にしたとたん、馬鹿らしさと今度は自分に対する腹立たしさが襲ってきた。仕事のために毎日ここに訪れていると言うのに、こんな時に限って最後の一歩が踏み出せない。どれほど決意を固めてみても、だ。
仕方がないので今度は今来たばかりの道を戻っていく。もちろん、自宮に帰るつもりなどさらさらない。
獅子宮を抜けたところで横道にそれた。ここからならば双児宮を通らなくても下へと降りていける。そう考えて、半ば崩れかけた崖を足元を確かめながら降りていく。幸い今夜は晴れていて、星の明かりもかなりある。私ほどの視力があれば、降りていくのはそう困難なことではない。
そうこうしているうちに見慣れた風景が広がった。ふと見渡すとちらほらと夜警の姿が見える。その場に留まっている者と巡回のついでに訪れた者。それから隠れるように、私は手ごろな大きさの岩の間に身を潜めた。だが、こちらのことも知らず、彼らは立ち止まり何かを話しているようだ。
「立ち話などせんとさっさと行かんか」
この苛立った声は誰のだろうとふと考え、それが自分のものだと気付く。――だが、それすらも馬鹿らしくなってきた。どうして私がこのようなことで苛立たねばならん。どうして、黄金聖闘士であるこの私が、雑兵から隠れるようにこうして岩場に身を隠していなければならんのだ。私は別段悪いことをした覚えもないし、身を隠さねばならないような身分でもない。そうだ、こんなところに隠れている必要はないのだ。もっと堂々としていればいい。
いや、そもそもこんなことで腹を立てる必要など元からなかったのだ。カノンが自分勝手なことは、とうの昔からわかっていること。腹を立てたところでそれが直るわけでもなし、私も直してやろうなどとは微塵も思っていない。これに関しては自分の中で生き別れる前にけりをつけたことではなかったのか。
「サガ様、いかがなされましたか?」
急にかけられた声に一瞬心臓が縮み上がった。考え事をしているとどうも周りが見えなくなってしまっていかん。こうして雑兵が近づいてきていることすら気付かないなど、私にとってはあるまじきことだ。
「少々、夜風を浴びたくなってな」
勤めて笑顔で振り返ると、そこにはあっけに取られた雑兵の顔が二つあった。……私が夜風を浴びてはいかんというのか。
「私がここにいるのはそんなに驚くようなことか?」
そう問うと、二人そろって慌てふためいた顔をして「いえ、珍しいと思いまして……」という言葉が小声で返ってきた。話を聞けばアイオリアなどはよくこの辺をうろついているが、私の姿はほとんど見かけたことがないと言う。それはそうだろう。普段、私は夜は出歩かないたちなのだから。
だが、彼らと話しているそんな些細なことも今の私にはちょうどよかったのかもしれない。先ほどまであんなに苛立っていたというのに、それがみるみるうちに収まっていく。やはり私も少しばかり興奮していたようだ。
「そろそろ私も帰るとしようか。お前たちも気をつけて」
頭を下げる雑兵たちにそう言って、崖を上ろうとしてふと足を止める。
「あの、何か……」
「いや、こちらから向った方が早いだろう?」
少し離れた場所に見える明かりは白羊宮のものだ。そこを指差すと彼らは確かに、と頷いてまた先ほどと同じように頭を下げた。――よく考えれば、彼らはいったい一日に何回こうやって頭を下げているのだろうな。
むき出しの地面とはいえ、崖とは比べ物にならないほど楽な道を通って双児宮へと戻る。白羊宮を抜ける最中、奥から子供のはしゃぐ声が聞こえ、ムウはまだ貴鬼を寝かせつけていないのか、もうこんな時間なのに、と他人を心配する余裕まで出てきたことに気付く。
そうだ。私はこうやって常に冷静に落ち着いて、余裕ある態度で人に接せねばならんのだ。そう自分に言い聞かせながら金牛宮を抜け、やがて双児宮へと入る。
扉の前で一度深呼吸をし、カノンに告げる言葉を口の中で繰り返す。これでいい、ともう一度確認して扉を開ける。そこにはふて腐れたカノンがいる――はずだったのだが、部屋の中はひっそりと静まり返ってきた。
カノンはいったいどこへ行ったのだ。この私に何も言わないで。