[-prologue-その先に見えるもの]
やっと、受け入れられる。そう思った時には、相手はもはやこの世の人間ではなかった。
軽く蹴った小石が、軽快な音を立てながら海へと吸い込まれていく。この場所特有の強い風に吹かれ、あちらこちらと転がりながら、海へと落ちるさまを見てカノンはふと考えた。まるで、人間の一生のようだ、と。
だが、そんな詩的な言葉は似合わない、と自分で打ち消し、また一つ。今度は小石を手にとって、はるか遠くを目指して放り投げる。瞬く間に石は見えなくなり、着水したのかどうかも、波の音に消されてわからない。
全てを失い、あの時自分は死んだのだと思った。いや、確かに死んだのだ。今までの『カノン』という人間は。
兄の影に縛られ、底辺をはいつくばって生きてきた二十数年。それは海底に赴いた後も変わらず、カノンを悩ませ続けた。何かことを起こすごとにちらつく兄の影。それを『縛られている』と勘違いしていたのに気付いた時にはもう遅かった。彼の兄はもう、この世から去った後だったのだ。
だが、動き出した状況を止める術は彼にはなかった。自分でまいた種は今や大きく葉を広げる大樹となって、カノンの本来の意志とは別のもの――神の意志として動き出していた。周りも皆そうだった。その中でカノンは指示を仰がれる立場にあったとは言え、すでに神の手駒の一つとなっていた。
あれほど欲していた『継承者』という言葉。立場。そう周りの認める声。海底で持っていたそれは、実に近いものだったが、それもまた嘘だった。その地位にいる彼自身ですら自分が海龍の継承者であるかどうかすらわからなかったのだから。
だが、ある時をきっかけに自分こそが海龍の継承者なのだ、と思うことにした。なぜなのかは覚えていない。ただ、いつまで経っても現われない『継承者』に対して、ならば自分がそうなのだ、と思うことになったのだろう。もしかしたら、本来の継承者は別にいたのかもしれない。それでも海龍はカノンを選んだ。ならば、きっとそうなのだろう。もし仮に本来の継承者がいたとしても、運命が変わり、今でも安穏と暮らしているのかもしれない。
そんな相手に対して最初は勝ち誇った気持ちが強かった。だが今は、彼に対して穏やかな気持ちで思うことができる。
海底神殿は崩壊した。ポセイドンも再び眠りについた。そして何より、この戦いで命を失った者も多かった。だからこそ、この広い世界のどこかで何も知らず、幸せに暮らしているであろう相手に、少々のおかしさをこめながらも愛情を持つことができる。
そんなことを考えてふと、ある老人の言葉を思い出した。あの重厚な法衣に身を包んだ老人。彼は幼いカノンの頭を撫でながらよくこう繰り返していた。
「もう少しだ。もう少し我慢してくれれば――」と。
彼には彼なりの考え方があったのだろう。そもそも、兄のサガが聖域へ行くことが決まった時、その願いを聞き入れてカノンも一緒に聖域へと招いたのは他ならぬあの老人だった。
自分の置かれた状況に不平をもらすたび、老人はそう言ってカノンの頭を撫でた。もう少し待てば自由を与えられる。だからそれまでは、とまるで呪文のように呟き続けた。それでも十三年前――ついにカノンは籠から飛び出した。あの時はただひらすら、自由を求めていた。自分が影でなく、一人の人間として胸を張って生きていけることを強く望み、彼に影であり続けることを強要してきた聖域から逃げ出した。そして聖域の敵である海底に身を置いた。
「人としての幸せ、か」
そう呟いてカノンは自嘲した。それはかつて、あの老人がカノンに言い続けた言葉。だが、老人が願ったそれも叶いそうにない。
「俺は俺のやり方でけじめをつけてやる」
そう言って海に別れを告げるように片手を上げると、ゆっくりと歩き出す。その遥か先に、まるで彼を出迎えるかのように、白い女神像が立っているのが見えた。